連載「変わった履歴書の人に、会いに行く。」は、ユニークな経歴を持つ人のもとを訪ね、その生き方を深掘りすることで、「ふつうの履歴書」という固定概念を問い直します。すべてのひとが、自分をさらに好きになれる履歴書をつくれることを目指して。
ある日、神宮球場の外野席で、一人ビールを飲みながらヤクルト・広島戦を観る男がいた。
1回裏、ヤクルトの先頭打者デイブ・ヒルトンが二塁打を打った瞬間、彼の頭に「そうだ、小説を書こう」というひらめきがおりてきたという。
彼はのちに、世界的な作家・村上春樹として知られることになる。
天職とよべるような仕事も、はじまりはなんの脈絡もないひらめきだったりするのかもしれない。ノブさんにとってもそうだった。
ノブさんこと清水伸彦さんは、世にも珍しい「人力俥夫兼、フォトグラファー」だ。飲食物や企業の商品・広告写真などを中心に撮影をしながら、東京・浅草でフリーの人力俥夫として活動している。かつては、有名フェスにも参加するバンドのベーシストだったこともある。
ノブさんにも、「ヒルトンの二塁打」のような、ひらめきのきっかけとなる出来事あった。それは仕事を辞め、失意のなかパートナーと訪れた千葉の海辺でのこと。夕日に照らされたその日の記憶を、彼とたどった。
今とは150度性格がちがった少年時代
入った瞬間、「この部屋、ノブさんらしいなぁ」と思った。自宅にお客さんがきたときや、ノブさんやパートナーがくつろぐスペースだという自宅の2階には、植物、ベース、カメラ、陶器、靴など、彼の好きなものが詰め込まれていた。
取材のために自宅を訪ねたこの日は、12月の下旬。外は少し寒かったが、部屋はぽかぽかとあたたかい。聞けば「30分前からストーブつけておいたので」とノブさん。気配りがすごいなぁ、と感激する。
ホスピタリティがあふれる、明るい人。それがノブさんの第一印象だった。だから、以前共通の友人の紹介で会ったとき、「小さい頃は内向的だったんですよ」と聞いて、ちょっと信じられなかった。
「そう。今とは180度とはいわないけど、150度くらいちがう性格で。かなり太ってたのもあって、内向的でした」
家系的に太りやすい体質だったこともあり、小学4年の頃には40キロ以上に。健康的にも懸念があるということで、心身の育ちに特別な配慮が必要な児童・生徒が通う「養護学校」(現在の特別支援学校)に通うことになったらしい。10歳にして親元を離れ、単身、寮での暮らしが始まった。
「生まれも育ちも葛飾なんですけど、葛飾区の特別支援学校が千葉の鋸南にあるんですよ。1階が学校で、2階が寮になっていて、そこで1年間、寮生活。食事は『今日は何キロカロリーです』みたいな感じですべて管理されて。校舎の裏は山で、3分歩くと海なんです。もう、東京とは真逆のところ。親元から離れて、最初はワンワン泣いてました」
しかし半年が経つころには、ノブさんは変化していた。心から、ここでの生活を楽しめるようになっていたのだ。
「基本的に、行動は子どもにゆだねられてるんで、休みの日はなにしてもいいんです。僕は毎日釣りをしてました。あるときは先生がいろんな道具を持ってきて『山に行くぞ!』って、一緒にツタだらけのジャングルみたいなとこを切り分けていくとか。東京じゃ絶対できない娯楽を肌で味わってましたね」
学校の目の前の海岸では、海岸線の向こうに赤い夕日がしずむ。その光景を、「おもしろいことが、世の中にはいっぱいあるんだなぁ」という気持ちとともに、ノブ少年は眺めていた。
人力車と、写真と、音楽。好きなことをしてすごした日々
1年間の鋸南での生活を経て、東京に戻ってきたノブさん。その後、かつて内向的だったのが不思議なほど、世の中のおもしろいことと出会っていった。
ひとつは音楽。好きだったBUMP OF CHICKENにならって、中学を卒業する頃、同級生4人でバンドを結成した。ノブさんは「ベースっぽいから」という理由でベースに。その後、高校でも軽音部に入った。「喜怒哀楽を、すべて音に乗せられる」という感覚に魅せられたノブさんは、「音楽は、ずっと続けていこう」と思うまでになった。
もうひとつは写真。大学生になった20歳ぐらいのとき、 免許合宿のために栃木に行った。そこは周囲にはなにもないようなド田舎。やることがないので、母親からもらったコンデジで、好きだったアニメ監督・庵野秀明の構図を真似て、たくさん写真を撮った。「そしたら、おもしろいじゃん、と思って。写真の原体験があるとしたら、そのときですね」。
そして、わすれちゃいけないのが、俥夫の仕事。その出会いは偶然だった。
「大学1年か2年のとき、お世話になってた同じサークルの先輩がいたんです。その人が俥夫のバイトをしてて、『今度オフィスこない?』って誘われたから、ひょこひょこ行ったんですよ。そしたら、会社の人が『今から面接するね』って。『話がちがうんだけど…』って思いつつ、いろいろ話したら、『大丈夫そうだね、じゃあよろしく』って言われて(笑)。まあ、自分も興味はあったんで、じゃあやるかってことで、そこから俥夫を始めました」
音楽に写真に俥夫。次々におもしろいことにのめり込んでいった。あれ、就活は?と思って尋ねると、「まったくしたことないですね」と即答。「僕は死ぬまでスーツを着たくなかったので」。キャンパスではみんながリクルートスーツを着てるなか、ベースのケースを抱え、長髪をなびかせて歩いていたらしい。
「母親には、『25歳までは好きにやれ』って言われてたので。25歳までは人力車と、写真と、あとは音楽と。本当に好きなことしかやらなかったです」
気持ちが落ち込み、実家の会社を辞めざるをえなかった
約束の25歳になった。芽は…出なかった。音楽活動ではりんご音楽祭という大きなフェスに出るまでになったものの、それで食べていく、というところまでには至らなかったのだ。
「いい加減、自分のケツを拭かないといけないな」と思っていると、親から「お前、職人やるか」と声をかけられた。ノブさんの実家は、葛飾区の江戸切子職人だ。ノブさんも「やってみっか」という気持ちになり、実家の会社に入ることにした。
が、待っていたのは、つらい日々だった。
「まあ、端的に言うと、合わなかったんですね。何かをつくるのは好きだし、 切子が素晴らしいのはわかるんですけど…。たとえば、80点のものをつくろうと思っても、30点のものしかつくれないんですよ。家族や先輩の職人からの期待も感じていたので、プレッシャーもありました」
自分はこの家で何ができるんだろう…。そんなモヤモヤが積もっていった。会社に入ってから1年経つか経たないかのある日、張り詰めた緊張の糸が、プツンと切れた。
「朝起きたら、本当に、動けなくなったんです。なんかわかんないけど、ずっと涙が出てくるんですよ。母親に、すいません、今日休ませてくださいって言って。 何をするでもなく、ずっと天井を見ながら泣いてました」
1週間ほど休んだが、状態は改善されない。それどころか、どんどん苦しくなっていった。病院に行くと、うつ病の疑いがあると診断された。
休職とカウンセリングをはじめたが、悲しみや罪悪感はなくならなかった。「自分で『やる』って言ったのに、みんなに迷惑をかけてしまってる」。実家に住んでいたため、切子をつくるときのガラスを削る音が聞こえてくる。その音を聞くのが、つらかった。
「ある日、母親の前で、 感情が爆発しちゃって。息も絶え絶えに泣きまくったんです。そしたら、『私はあんたに職人になってほしいわけじゃなくて、 元気に生きてることが1番の幸せだから。無理して家の仕事をしなくていいんだよ』って言われて…。それも否定したいんですけど、体が言うことを聞かないんで。結局、1年くらいで実家の会社を辞めました」
そうだ、俺、写真を仕事にしよう
無職になり、失意のなか半年ほどぼんやりとした生活を送っていたある日。ふと、あの小学校4年の時に過ごした学校に行きたくなった。
そこで、パートナーと一緒に、15年ぶりに鋸南の学校を訪れることにした。すると、当時お世話になった先生が、まだいたのだ。ノブさんのことも覚えていたようで、「卒業生が来てくれたよ!」と、談話室に子どもたちを集めてくれた。
「今なにしてるんですか」「ここにいたときはどんなテレビみてたの」。かつての自分くらいの年齢のこどもたちが、まっすぐなまざなしで問いかけてくる。ひとつひとつの質問に答えていると、ノブさんは自分の変化のきざしに気づいた。
「言葉を振り絞って、『実はこういう仕事をしてたんだけど、今ちょっとお休みもらってるんだよね』とか、いろいろ話してたら、 なんかわかんないけど、『自分、ちゃんと話せてるな』と思って」
学校を後にし、目の前にある海岸を歩いてみた。10歳の頃、毎日眺めていた光景が、そこにはあった。うち寄せる波の音、頬をなぜる風、空を舞うカモメたち。海岸線の向こうでは、夕日が沈もうとしていた。
ノブさんは、気が付くとカメラをかまえ、シャッターを切っていた。
「妻と一緒に夕日を眺めながら、パシャって撮ったら、あぁ、やっぱり写真好きだなぁって。ぼんやりと思ったんです」
旅を終え、実家に戻ってから数ヶ月後。それは唐突におとずれた。目を覚ました瞬間、あるひらめきがノブさんの頭に浮かんだのだ。
「そうだ、俺、写真を仕事にしよう」
理屈もなければ、勝算もない。だけど、そのひらめきは力強く、ノブさんの背中を押した。
ノブさんはすぐ、「写真 仕事にする」と検索していた。
「そしたら、『フリーランスフォトグラファーになるためには開業届を出せ』って書いてあったから、起きて身支度して税務署に行って、開業届を出して。その日が、フォトグラファーとしてのキャリアのスタートでした」
その後ノブさんは、俥夫の仕事で知り合った知人が立ち上げる劇団の撮影をしたことがきっかけで、2019年にはビートたけし氏が名誉顧問を務める『えどまち たいとう芸楽祭』に出演するチーム東京アフロの専属フォトグラファーに任命されるなど、順調にキャリアを積んでいった。現在では、人力車での観光と撮影を組み合わせた、独自の取り組みも始めている。
どんな川も、たどっていけば1滴の雨水にたどりつく。人生もきっとおなじだ。どんなユニークな活動をしているひとだって、そのはじまりは、ほんの些細な、けれど閃光のようにかがやくひらめきだったりする。
村上春樹にとって、それはヒルトンの二塁打の、あの瞬間だった。ノブさんにとっては、あの日のあの夕日に向けて、パシャリ、とシャッターを切った瞬間だったのかもしれない。
俥夫×フォトグラファーの活動
ヒルトンの二塁打や海岸の夕日のように、ノブさん自身も誰かにとって、人生の転機に立ち会う存在であるのかもしれない。それはたとえば、俥夫の仕事をとおして。
僕もあまり知らなかったのだが、「俥夫は単に人力車をひくだけの仕事じゃない」とノブさんが教えてくれた。お客さんに合ったコースを考え、提案し、コミュニケーションをとり…と、さまざまな能力が求められるのだそうだ。
そして、お客さんは毎回、年齢も性別も、話す言葉も、考え方もちがう。「だからこそ、この仕事はおもしろいんですよ」とノブさんは力を込めて語る。
「お客さんのなかには、人生の岐路に立たされてる人も多いんです。悩みを抱えてたり、葛藤してたり、何かと戦ってたり。人力車をひいてると、ある瞬間に、お客さんがポロッと悩みを打ち明けることもあります。僕らは俥夫は、いつも試されてるんです」
ノブさんがいまでもつよく印象に残っているのは、こんなお客さんの話だ。
「女性おふたりのお客さんで、おひとりが杖をついていて、もうひとりが支えているんですよ。杖をついてる方が50代前半、支えている方が40代前半くらいかな。
浅草を紹介しているなかで、『おふたりはどうしてここに来られたんですか?』って聞いたたら、『実は私たち、末期ガン患者のコミュニティで知り合って、動けるうちに、いろんなところを見に行ってたくて、2人で旅をしています』っていうんです。
案内できるのは30分。その話を聞くまでに、すでに5分使ってました。あー、残り25分か。僕はこの25分で何ができるかなって、めちゃめちゃ考えました。考えに考えて、いろんなところをご案内して、『わあ、こういうとこもあるんだね』って喜んでもらえて。僕は、うまくいってよかった!と思いました。
最後にお見送りするときに、いつもであれば『また来てくださいね』って言うんです。だけど、僕、その言葉が出なかったんですよ。そのひとことって、言っていい言葉なのかなって。その言葉が、相手にとってハードルになってしまわないかだったりとか、いろんな感情が湧いてきて…。今でも、あのときどうすればよかったんだろうって、答えが出ないでいます」
ノブさんはこんなふうに、人生の岐路に立ち会い続けている。責任も大きく、葛藤や後悔もはらんでいるだろう。だけど、「そういう人と出会えるから、この仕事はおもしろいなって思います」と、ノブさんは目を輝かせながら語ってくれた。
経歴にはあらわれないもの
ノブさんに、あのとき鋸南の海岸で撮った写真を見せてもらった。
スマホの画面にうつしだされたのは、しずみかけた陽に照らされる海と、パートナーの姿。
「いまでもこの写真をみると、僕の中で、なにかがすごい揺れるんですよ。なんか、ぞわぞわってする。この写真は好きか嫌いかでいったら、かなり好きです。その時の自分の気怒哀楽が、全部写真の中にふくまれてるので。多分、今じゃ撮れないような気がします」
ノブさんは、あのとき、あの海岸で感じたものをかみしめるようだった。
いまではホスピタリティにあふれ、外交的に見えるノブさん。でもそんなノブさんのなかに、人と話すのが得意ではなかったり、仕事ができず涙を流していた頃の彼もいる。
その頃のノブさんの姿は、経歴にはあらわれない。だけど、この夕日の写真からは、たしかに彼らの姿も感じとれる気がした。