人が混ざりあう場所が、私を救ってくれた。 福祉環境設計士・藤岡聡子の「“生きる”がめぐる環境をつくる」生き方
#039

人が混ざりあう場所が、私を救ってくれた。 福祉環境設計士・藤岡聡子の「“生きる”がめぐる環境をつくる」生き方
福祉環境設計士藤岡聡子

扉の向こうには、不思議な光景がありました。
台所からただよってくる美味しそうなご飯のにおい。エプロン姿で手際良く料理をする人たちがいて、そのそばではちゃぶ台を囲み、なにやらミーティングをしている人たち。奥に目をやれば、障がいがある子どもたちと大人が、居間のような空間でリラックスしてすごしている姿も。

ここは、長野県軽井沢町の発地(ほっち)という場所にある、「ほっちのロッヂ」。簡単にいえばデイサービスであり、訪問看護のステーションであり、診療所であり、病児保育や医療的ケア児のケアの拠点となる場所でもあります。

けれど、それらの言葉では説明しきれない“なにか”が、ここにはある。一度足を踏み入れると、そう感じずにはいられません。

ほっちのロッヂでのひとこま。(写真:藤岡さんご提供)

ほっちのロッヂを、医師である紅谷浩之さんとともに開業したのが、福祉環境設計士・藤岡聡子さん。この場所が持つ、言葉では説明しきれない“なにか”を紐解く鍵は、藤岡さんが小学校6年生のときに経験した父親の死や、それをきっかけとして“やさグレていた”時期、あるジブリ作品との出会いなどにあったそうです。

藤岡さんの「“生きる”がめぐる環境をつくる」生き方とは。

 

ほっちのロッヂの外観。

診療所と大きな台所があるところ

-はじめてほっちのロッヂを訪れたんですが、なんだか不思議な空間ですね。台所があって、みんながくつろげるリビングみたいな場所があって、診察室があって、画材やキャンバスが置かれた部屋もあって…。

藤岡:わたしたちはここを、「診療所と大きな台所があるところ」って呼んでるんです。

-診療所と大きな台所があるところ。

藤岡:ふつう、診療所に台所はないですよね。医療って暮らしから切り分けられて、病院で医者や看護師に指示されるもの、みたいな状態になっていると思うんです。

でも、医療だって人の暮らしの一部じゃないですか。お腹が痛いあなたとご飯を食べて美味しいと思うあなたって、同じ人間だし。医療だけじゃないけど、暮らしからいろんな機能が分断されすぎてるんじゃないのかなって思うんですよね。

-なるほどなぁ。体調がわるくなったら病院に行って、お腹が空いたらレストランに行く。当たり前のように思ってましたけど、言われてみれば、そこには「暮らしの分断」があるわけですね。

藤岡:そうそう。ほっちのロッヂは、そういう分断をとりはらって、分断のない「暮らしの営み」みたいなものを取り戻すような場所なんです。そういう思いを込めて、「診療所と大きな台所があるところ」って呼んでるんですよね。

-「大きな台所」っていうのが、いいですね。つい来たくなっちゃう。

藤岡:ははは!そうでしょう?人って、美味しそうな匂いがするところには行ってみたくなりますよね。だから大きな台所があれば、いろんな人が集まって、ケアされる側の人もケアする側の人も、次第に境界が曖昧になっていって、「やりたいこと」に応じて互いに支え合うような環境ができるんじゃないかな、と思ったんです。

(写真:藤岡さんご提供)

 

人が力を発揮できるかは、環境に大きく影響される

-藤岡さんの「福祉環境設計士」という肩書きも、とてもユニークですよね。

藤岡:「こういう資格あるんですか?」ってよく聞かれるけど、ないんです。自分で名付けちゃったんですよね。「福祉環境設計士って、なんだろう?」って、興味を持ってもらえるんじゃないかなって思って(笑)。

-具体的にはどういうお仕事をしてるんですか?

藤岡:なんだろうなぁ…。いろいろやってるんですけど、けっこう草むしりしてますね。

-え、草むしり!?

藤岡:あとは用水路の整備とか。まぁ、草むしりとか用水路の整備ばっかり、っていうのはおおげさかもしれないですけど(笑)。でも、環境全体を見てます。

-環境っていうのは、自然環境という意味のことではなくて、自然や建物や人の関係を含めた、人をとりまく状況っていうことでしょうか?

藤岡:まさにそうですね。わたし、これまでも福祉に関わる事業に取り組んできましたけど、どれもケアする人とされる人を区別するんじゃなくて、誰もが集まって交流できる環境をつくってきたんです。ほっちのロッヂでも、それをやっていて。

-ケアする人とされる人の境界がない場所をつくっている…ということですか?

藤岡:あくまでも、つくってるのはここにいるみんなだと思ってます。ほっちのロッヂって、医師とか看護師、介護や保育とか、専門性を持った人たちが、それぞれの力を発揮して、いろんな営みが行われてるんですね。

でも、わたしは医療の資格を持ってないから、診察したりワクチンつくったりとかは一切できない(笑)。じゃあわたしになにができるかっていったら、環境をととのえることなんですね。

-環境をととのえること。

藤岡:それは空間づくりだったり、人の採用だったり、お金のことだったり、草むしりや用水路の整備だったり…あらゆることなんですけど。ひとことでいえば、全体を見ながら、一人ひとりが力を発揮できるように環境を整えてる、っていうことかなと。

-つまり、一人ひとりが力を発揮するのは、個人の力次第ではなくて、環境に左右されるわけですか。

藤岡:そう思います。環境の影響はすごく大きいと思う。だから「福祉環境設計士」って名乗って活動してるんですよね。

 

がんで亡くなった父親を、気持ちよく送れなかった

-どうして、環境が人に与える影響に関心が向くようになったんですか?

藤岡:だいぶさかのぼっちゃうんですけど、わたしが小6の時、父を肺がんで亡くしているんです。そのとき、父親を気持ちよく送れなかったんですよね。

父は医者をやってたので、人を治す側の人で。それに、まだ45歳で若かったし。そんな父が、どんどん痩せてくわけですよ。がんが見つかってから2年で亡くなるんですけど、弱っていく父を見て、「怖い」って感じてしまったりもして。頭ではわかってるけど、心が追いつかない。なんでだろう、どうしちゃったんだろう…みたいな。父の死に、ちゃんと向き合えなかったんです。

だから、変な話、父が亡くなったときにちょっとほっとした気持ちもあって。

-ほっとした…っていうのはどうしてでしょう?

藤岡:もちろん寂しいですよ。ものすごく寂しい。だけど、自分がよすがにしているような力強い存在の人が、みるみる衰弱していってる姿を見ているのは、怖いし、きつかったんですよね。それが八十歳のおじいちゃんだったら「おじいちゃんよく生きたね」っていえるかもしれないけど、父は当時45歳ですから…。

そういう、大切な人が目の前で衰えていくことのつらさから解放されて、ほっとする気持ちもあったんだと思います。でも裏を返せば、死とちゃんと向き合えてなかったっていうことでもあって。

だから、気持ちよく送れなかったっていう心残りが残ったんです。「父親をちゃんと送れなかった自分は、よくない存在なんだ」みたいに、自分を責めるようになって。

それ以来、「人が生きることとか死ぬことを、どう捉えたらいいんだろう?」っていう問いが、ぐるぐる頭の中で回るようになりました。

 

歪んでいた自分を正してくれる人との出会い

藤岡:父親が死んでしまってから、母親とも口をきかなくなったんですね。中2から高2くらいまで、母親と顔を見てしゃべらなかったんですよ。ほぼ家出してるような感じで、まぁ、グレてたんです。“ やさグレ”ていた。家族もぐちゃぐちゃになって。

そのころから、同じ年齢の子達といることもすごくしんどくなって。友達が無邪気に笑っていることも、「能天気に笑いやがって」みたいな。今思うといやな奴ですけどね(笑)。それで、中学も行かなくなったんです。あの頃はしんどかったですね。

-そのしんどい時期を抜け出せたのは、なにかきっかけがあって?

藤岡:夜間の定時制学校に通うようになったのが大きいです。その学校とか、その延長ではじめたバイトが、自分の居場所になったんですよ。

定時制高校って、年齢もバックグラウンドもバラバラな人が集まっていて。言葉はわるいですけど、どうしようもない大人もいっぱいいるんです(笑)。遊ぶ金欲しさに、バイト先のお金を盗んでキャバクラ行っちゃうような人とか。「もっとまともになりなよ!」って、15歳くらいのわたしが30,40くらいのおじさんに怒ってましたから(笑)。でも、かっこいい大人もいましたね。

-印象に残ってる人はいますか?

藤岡:わたし、朝7時から夕方5時までガソリンスタンドで働いてたんですけど、同じ時間に勤務してる女性がいたんです。ターちゃんっていうんですけど、当時40代くらいで、金髪のソバージュで、タバコをスーッと吸って。かっこいい人なんです。

ターちゃんは当時、血のつながらない子どもを立派に育ててました。意志がなきゃできないですよね。「ドラマか!」っていうような人生を生きてた人なんですけど。

藤岡:ターちゃんからは、いっぱいピアスがついてるから「ピー助」って呼ばれてて。一緒に働くようになって半年ぐらい過ぎたとき、「ピー助、お前さ、その弁当誰につくってもらってんの?」って聞かれたんですよ。こう、タバコ吸いながらですよ。「…おかんやけど。」って答えたら、「お前、ありがとうつってんの?」って。内心、「あー、やばい…」みたいな(笑)。

-お母さんとは喋ってなかったわけですもんね。

藤岡:そう。わたしいつも、アルバイト先のガソリンスタンドに行くために、朝6時40分くらいにバイクで家を出てたんですけど、毎朝必ず母親が弁当をつくってくれてたんです。わたしが目も合わせないから、母も「どうしよう…」って感じだったと思うんですけど、なにも言わず弁当をつくってくれてた。それに対して、お礼を言ってなかったんです。

たぶん知らず知らずのうちに、父親が死んだことからくるストレスを母親に向けてしまってた部分があったんでしょうね。なんか、当時のわたしはすごく歪んじゃってた気がする。

-それをターちゃんに見透かされてたのかなぁ。

藤岡:どうですかね、わからないですけど、でもターちゃんの言葉はガツンときたっていうか。わたしが歪んでた部分を、ターちゃんは正してくれたんだと思う。

大切な人にありがとうと伝えるっていう、当たり前のことだったりとか、自分がお世話になった人への気持ちの向け方みたいなところを、軌道修正してくれたのがターちゃんだったんです。

それ以来、母親とメールをし始めて。本当に、それまでの時間を埋めるかのように、どんどん関係性も良くなっていったんです。

 

混ざり合うことが、人を許しもする

-ターちゃんをはじめ、定時制高校やバイト先が居場所になったのは、なぜだったんでしょう。

藤岡:それはきっと、ぜんぜん違う属性の人が混ざり合えていたからだと思います。

それまでは、「お父さんをちゃんと送れなかった子」として生きていかなきゃいけないって、自分を責めてたんです。でも、あまりにもいろんな境遇の人と出会って、「まぁいっか」って、自分を受け入れられるようになったんですよ。なかにはターちゃんみたいに応援してくれたり、わたしも応援したくなるような気持ちが生まれた人もいて。

-同じような境遇やバックグラウンドの人、ではなくて、いろんな人がいたのがよかったんですか?

藤岡:本当にそうだと思います。いろんな人が混ざり合うということは、その場にいる人を許しもするんですよね。いろんな人がいることでしんどさが生まれる人もいると思うけど、わたしにとっては本当に救いだったんですよ。

-いろんな人が混ざり合うこと…。なんだか、今の藤岡さんがつくっている場にも通じている気がします。

藤岡:ほんと、つながってますね。環境っていうものが、人が困難から解放されていくためにすごく必要なんだ、って思うようになったのは、あの10代の経験が大きい。少なくともわたしは、環境によって変わったので。環境を変えることが困難を乗り越える唯一の正解だとは思わないけど、「固定化された関係性はつくってはいけないな」っていうことはすごく思うようになりましたね。

『ポニョ』を観て、「こんな場をつくりたい」と思った

-その後、『崖の上のポニョ』を観たことも人生に大きな影響を与えたそうですね。

藤岡:そうなんです。それまでもジブリの映画に救われたことはあったんですけど、大学4年のときにはじめてポニョを観たら、大泣きしちゃって。

-どのあたりが琴線に触れたんですか?

藤岡:主人公である5歳の保育園児・宗介とポニョを、たまたま居合わせたおじいちゃんとかおばあちゃんが「宗介、いいぞ!」みたいな感じで応援するわけですよね。なんか「そうだよね〜」って、異様に泣けちゃって。ポニョみてそんなふうに泣く人、わたしくらいかもしれないですけど(笑)。

なんか、ちゃんとバトンが渡されてる感じがあったのかなぁ。老いていく人たちや亡くなっていく人たちも、純粋に役に立ちたいっていう、生きる上ですごく大事な気持ちがあって、誰かに勇気を与えたり、背中を押すことができるんだって。わたしは父親をちゃんと送れなかったっていう背景を背負ってきちゃってるから、すごいガツンときたわけですよ。

-あぁ、そうか…。老いたり亡くなっていくからといって、ケアされるだけの存在じゃない。バトンを渡す側にもなれるわけですね。

藤岡:そうそう。それで、ポニョの舞台になってる街は、保育園と、そのそばに高齢者が通うデイサービスと呼ばれる場所があるんですね。だからわたし、「このふたつが地続きになるような場所を、実際につくりたい!」って思ったんですよ。

そのあと、新卒2年目の24歳のときに、友人から老人ホームの立ち上げを一緒にやらないかって誘われたんです。その友人には、ポニョをみて「こういう場をつくりたい」って思った話なんてしてないから、びっくりなんですけど(笑)。それで、介護ベンチャーの創業メンバーとして、住宅型有料老人ホームの開設に携わったんです。

けっきょく、1人目の子どもができたことと、母が末期がんになり看病が必要になったことが重なって、介護ベンチャーからは離れることになるんですけど。それから10年以上、場所やかたちは変えながらも、ケアされる側の人もケアする側の人も混ざり合う場所をつくり続けています。

 

生きることと老いること、をめぐらせる

-その後藤岡さんが取り組んできた「長崎二丁目家庭科室」や「ほっちのロッヂ」にも共通する、藤岡さんの哲学みたいなものがある気がするんです。それって、言葉にするとどういうことなんだろう…

藤岡:あぁ、なんでしょうね…なんか最近は、「めぐり」があるといいなって思ってるんですけど。

-めぐり?

藤岡:人が生きることや老いることって、本来そのあいだに境界はなく、めぐっているはずで。だけど現代社会では、分断されてる気がするんですよね。たとえば、病気がある人は病院へ、お腹が空いた人はレストランへ。障がいがある子は特別支援学級へ…みたいな。

そうやって分けられていることが心地いいと思う人もいれば、わたしみたいに「なんか、違和感があるな」と感じる人もいる。だとすれば、その違和感を感じた人たちが、「ここは居心地がいいな」って思えるような環境をつくりたいんだと思います。それは、生きることや老いることが分断されていない、めぐりがいい環境なんだと思う。

-めぐりって、いい言葉ですね。高齢者とか子どもとか、障がいがある人とかない人とか、お医者さんとか患者とか。世の中ではそれらは区別されているけれど、その壁を取りはらうことで、いいめぐりが生まれる。

藤岡:そうそう。それが唯一の正解ではないけど、わたしみたいに、それによって救われる人もいると思うので。

でも別に、ほっちのロッヂじゃなくてもいいんですよ。バーでもいいし、おやつ屋さんでもいいし。今はたまたまこの場所でやっていますけど、分断されて、めぐりが滞ってるところはたくさんあるので、そういうところでめぐりをよくしたいなって思います。

-藤岡さんの話を聞いて、ほっちのロッヂで感じる心地よさの理由が少しわかった気がします。

藤岡:あー、そう言ってもらえると嬉しいですね!だから、最初の話に戻りますけど、めぐりをよくするためには、草むしりとか用水路の整備が必要なんですよ。別にスピリチュアルの話じゃないんですけど、風の通り道をつくってあげるというかね。

-なんだか、久石譲の音楽が聴こえてきそうですね(笑)。

藤岡:ははは!ちょっとジブリっぽい話ですね!

 

履歴書の空白が糧になる

-最後に、みなさんに履歴書についての考えを聞いているんですが、藤岡さんは「履歴書」に対してどんなイメージがありますか?

藤岡:「履歴書の空白」みたいな言葉があるけど、「空白ってなんやねん!」って思いますね。わたし、新卒で入った人材教育の会社を1年ちょっとで辞めて、友人と老人ホームを創業したんですけど、その会社も数年で離れているんです。先ほど言ったように、1人目の妊娠がわかったことと、母親の末期癌が見つかったので、仕事を続けられなくなって。

藤岡:あとは、2020年にほっちのロッヂを創業してから、早々にうつ病になって、めちゃくちゃしんどかったこともあります。半年間ぐらい、ずっと苦しかった。その頃の記憶すら曖昧です。

-そんな時期が…。

藤岡:でも、そういう経験って、履歴書には書けないけど、その後の人生の糧なんですよ。

すっごく落ちた時期とか、なにもできないような時期って、物事に対する見方を変えてくれますよね。他者を許容できるようになったり。わたしも親の看取りやうつの時期に、ものすごいしんどさとか、社会の理不尽を経験して、「こういうことを解決できたら、わたしみたいな人たちが生きやすくなるのかな」って、考えるようになったし。

-その時期がなかったら、今の活動はない?

藤岡:ないと思う。逆に、履歴書に空白がない人は、「糧になる経験はあるかな?」って心配になります(笑)。ぎゅっと詰まった履歴書の人もいるかもしれないけど、大事なのは履歴書に空白があるかないかじゃなくて、「そこで得た糧は何?」ってことなんですよ。

-大事なのは履歴書の空白の有無じゃないと。

藤岡:そうですね。空白があったとしても、その1年なり3年なり5年なりで得た糧は何なんだろう?っていうことを、自分自身で言語化する努力は止めちゃいけないのかなって、すごく思います。

-なんだかほっちのロッヂ自体も、藤岡さんの糧がたくさん詰まってる空間に見えてきました。

藤岡:えー、そうなのかな!?(笑)。でもほんと、みんながつくってる場所なんですよ。わたしは医療の専門的なことはできないから、わたしは用水路の泥をかき出してもらうために役場に連絡したり。相手には「こいつ誰だ?」って思われてますけどね、きっと(笑)。

 

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