2100年の未来まで、自分ごとにして生きる。 / グリーンズ  植原正太郎
#008

2100年の未来まで
自分ごとにして生きる。
グリーンズ 植原正太郎

「もし、履歴書に自由に項目をつくって自分を紹介できるとしたら、どんなことを書きますか?」
Proff Magazineでは、履歴書の自由なあり方を考えるために、そんな質問をさまざまな分野で活躍する方に投げかけてみることにしました。

今回話を聞いたのは、Webマガジン「greenz.jp」を運営するNPO法人グリーンズの副代表や、都会での農業を活性化させる「アーバンファーマーズクラブ」の理事を務める植原正太郎さん。

ソーシャルデザインに関わるキャリアを歩んできた植原さんは、自らの生き方について、どんなことを語るのでしょうか。

今の活動をうまく表現する肩書きはない

-植原さんは自分のことをどんな肩書きで自己紹介していますか?

植原正太郎さん(以下、植原):いやあ…もうね、肩書きを名乗ることをやめました(笑)。

-おお…それはなぜ?

植原:自分の今の活動をうまく表現してくれる肩書きは、ない(笑)! 今はより良い社会をつくることが僕にとって大事で、そのための肩書きはどうでもいいかな、みたいな感覚なのかもしれないです。

あえて名乗りたい肩書きがあるとすれば、「より良い社会をつくるための経営者」かな。というか、そうなりたいと思ってます。肩書きが「経営者」って、ちょっと違和感あるけど。

-以前は「コミュニティエディター」を名乗っていましたよね? それからどんな心境の変化が?

植原:たしかに「コミュニティ界の寵児になろう!」と考えていた時期もあったけど、3〜4年やって「一旦、やりきったな」という感覚が出て、それよりも射程の広いことにチャレンジしたくなった、というか。日本の未来とか地球の未来とか、学びたいこと、チャレンジしたいことが広がったという感じかな。

-なにかきっかけがあったんですか?

植原:2019年の4月に娘が生まれたことがすごく大きくて。それまでも「より良い社会をつくりたい」と思ってグリーンズに就職もして、プライベートも含めてそういうことに時間を使ってましたけど、娘が生まれる以前の活動は、今思えば「趣味」のようなものでした。

-「趣味」のようなもの。

植原:自分のためにやってたんですよね。「より良い社会をつくる」仕事をしていないと自分自身が苦しくなったり、つまんなくなったりとか、意義が感じられなくて。だから、「なんでこの仕事してるんだろう」っていう疑問が生まれない仕事がしたくてグリーンズに入りました。ありがたいことにグリーンズで働いていて、そういう疑問はここ数年一切ないんですよ。

なので、働いている環境としては最高に恵まれているなと思う。でも、あくまでも自分のためにやっていたと思うんです。

 

娘が生まれて、「より良い社会をつくる」が使命になった

-それが娘さんが生まれて変わってきた。

植原:娘が生まれて、娘が生きる未来に対して責任感が芽生えました。

娘は2019年に生まれたので、仮に80歳まで生きたら、2100年くらいにはおばあちゃんとして生きているわけですよね。以前の自分の感覚だと、2100年ってかなり未来の話だという感覚もあったし、割と他人任せに「なんとかなるべ!」くらいに思っていたんですけども。

ただ、娘が2100年まで生きる……となったとたんに、2100年っていう未来が自分ごとになった。「娘が生きる未来が大変なものになって欲しくない」という思いが芽生えたんです。

-2100年って、なかなかピンとこないですけど、どんな未来になると思いますか?

植原:正直なところ、あまりポジティブな未来は描けないです。気候変動が進行して、東京の気温が4度5度上がるというのは全然あり得る話だし、その影響でこれまで通りの作物が育たなくなくなるかもしれない。世界的に人口が増え続けるので資源に乏しい世界になるかもしれない。遺伝子編集やAIといったテクノロジーの進化も目覚ましいだろうし。

とにかく2100年までに劇的な変化が起きそうだなと。そしてそれは人為的なものが多くて「娘が2100年まで生きていたらけっこう大変そうだな」という予感が芽生えたんです。

-そういう感覚になったのは、なにかきっかけがあったんですか?

植原:個人的に大きかったのは去年の夏・秋と2度来た大きな台風です。日本各地で大きな災害につながったわけですが、あれだけの大型台風が発生した原因は海水温の上昇だとみられています。

「あっ、娘が生きていく世界は、こういうことが頻発するんだな」って、体験をともなって理解ができて、「これは一大事だぞ」と。

さらには今年に入ってからのコロナ禍で、世界中で大変なことになっている。娘の記念すべき1歳の誕生日は外出自粛の中、自宅で行いました。新型ウイルスによる感染症は、人間と生態系の関わり方を見直さない限り、今後も頻発すると予想されています。人類は台風のような自然災害だけでなく、ウイルスとも付き合っていかなくてはいけない。

自分だけの人生だったら別に「台風から逃げりゃいいや、ウイルスに罹らないようにすればいいや」みたいな話ですむけど、娘はこの世に生を受けて、生きていくわけじゃないですか。そんな娘に「自分の責任で生きていけ」というのはかわいそうだし、なによりも親から子への責任転嫁な感じがすごくある。それで「未来を良くするのは、自分の役割なんだな」と、娘が生まれてから深く腹落ちしたんですよ。

-「より良い社会をつくる」ことの、「社会」の射程が変わってきたんですね。

植原:射程もそうだし、「マジ(真剣)」になったかな。

娘が生まれる前、「より良い社会をつくりたい」という思いが「趣味」だったと言いましたけど、いまは「使命」に変わってきている感覚があります。

 

「落ちこぼれ」になって「より良い社会をつくる」生き方と出会った

-「より良い社会をつくる」という想いは、どのようなきっかけで芽生えたのでしょう?

植原:大学2年生から3年生に上がる時に、必修科目の「化学B」っていうテストの時間割を間違えてテストを受けられず、一撃で留年したのがきっかけです。それが僕の人生の分岐点。

いま「ビフォアコロナ」とか「アフターコロナ」っていう世界の捉え方が語られるようになってるじゃないですか。僕の経歴も、あの出来事以前と以後に分けられるくらい、大きな事件でした。「ビフォア化学B」「アフター化学B」、みたいな(笑)。

-具体的には、どんなことが?

植原:僕は、大学受験のとき理系の教科が得意だったので理工学部に入ったんですけど、入学したら授業とテストが難しくて、かつ全然興味が湧かなくて、テキトーにやっていて。

必修科目に関してはなんとか頑張って単位を取ってたんだけど、「化学B」だけは大学1年生の時に落っことして、それを大学2年生の時に再履修して。落としたら一発で留年ってわかってるので、2年生の後期はめちゃくちゃ勉強したんです。

それで、テスト当日。テストは2限目だと思ってたんで、「そろそろ家出るか」って時間割を見たら、そのテストが1限目だったんですね。

-うわあ、それはやってしまった…。

植原:気づいた瞬間はもう本当のパニックで、部屋と廊下を右往左往してた。人ってパニックになると、本当に右往左往するんですよ。「やばいやばいやばいやばい…」って(笑)。

1限目のテストが終わる直前2分前くらいに教室に入ったら、教授に「君、もうアウトです」と。その時点で一発留年が決まったんです。

-その出来事が、植原青年にとっては大きな意味を持っていたんですね。

植原:自分の思い描いていたキャリアがバツっと切れたというか。高校からストレートで大学に入りましたし、「新卒で大企業のメーカーにでも就職して終身雇用で定年まで働くか」、という考えしかなかったわけです。親も大企業で働いていたから、そういう選択肢しかないと思ってたし。

でも留年をしたことによって、描いていたキャリアが一発で消し飛んだっていう感覚があって。一気に自分は「落ちこぼれ」になったと感じたというか。それにすごいショックを受けて、1週間くらい表情を失いました。母親も「この子、そのうち自殺するんじゃないか」って心配するくらい落ち込んで(笑)。

-信じていた道が途切れてしまったわけですもんね。

植原:それでも、「もう落ち込んでてもしょうがない」と、留年しながら、バツっと切れた自分の人生をなにに使えばいいんだろうかと考えて、ヒッチハイクの旅に出たりしていたんです。

ちょうどその時、「社会起業家」や「ソーシャルビジネス」というキーワード雑誌やメディアで取り上げられ始めていて。『週刊ダイヤモンド』の社会起業家特集とか、フローレンスの駒崎さんの本を読んだりとかして、「うわー、自分こういう生き方したい!」と思ったんですよね。社会課題をビジネスで解決するって、すごいかっこいいなと。

-「より良い社会をつくる」生き方がかっこいいと思ったんですね。

植原:思いましたね。「使命を持って生きている人がいるんだな」って思ったし、「より良い社会をつくることを、ボランティアや市民活動ではなくて、ビジネスとしてやれるんだ! そんな方法があるんだ!」という感じで、脳みそに稲妻が走った感覚。

言い換えると、「疑問が生まれない生き方」ですよね、自分の仕事や生き方に対して。

-疑問が生まれない生き方。

植原:「何のために働いてんの?」と聞かれたら、すぐに答えられる生き方というか。例えば僕が学生時代にインターンとして関わっていたブラインドサッカーだったら、「視覚障がい者と健常者が当たり前に混ざり合うために働いてるんだ」とか。

人生の使い方として、「そういう使命のある生き方っていいよなぁ」という思いは、当時から今までブレていないですね。

 

コミュニティの発展を願う気持ち

-さて、これはみなさんに聞いているんですが、履歴書に付け加えるとしたらどんな項目を加えますか?

植原:さっきの化学Bの話と、娘が生まれた話と…。ああ、あとはMKN(武蔵小山ネットワーク)の話ですね。

-MKN。

植原:僕は2014年から武蔵小山に住んでいるんですけど、たまたま友達も3〜4人、武蔵小山に住んでいることがわかって。一緒に飲み歩いたりしてたんだけど、だんだんと友達が友達を呼んで、武蔵小山に20人くらいの友達グループができました。

ある時、その中の一人が風邪をひいたんですけどすぐに「薬とポカリを持ってこうぜ!」というような動きになった。その時に、とんでもない可能性に気づいたんです。何か困った時に助けてもらえるし、何かあったら自分も助けられる仲間が自宅からチャリで5分圏内にたくさんいる。その安心感だったり、貢献できる喜びがあるなって。

みんなが近所に住んでるってだけで「おいしいお土産もらったからみんなで食べない?」って気軽に誘えたり、引っ越しの手伝いをお願いできたり、心の調子を崩してしまった人をみんなでケアするといったりしたことが自然に生まれたんです。「こういう関係性のなかで生きてたら、人間は幸せなんだろうな」って、都会にいながら感じた体験だったんですね。

-その経験が、今の植原さんに活かされている?

植原:マズローの五段階欲求説ってあるじゃないですか。人間の欲求は、「生理的欲求」からはじまり、「安全の欲求」「社会的欲求」「承認の欲求」「自己実現の欲求」 というように、高次の欲求へ上がっていくっていう。

一般的に知られているのは「五段階」なのですが、マズローは晩年に、「自己実現の欲求の上にもう1段階ある」って言っていたらしくて。その最上位の欲求はなにかというと「コミュニティ発展欲求」らしいんですね。自分自身が満たされれば、地域社会、国家、そして地球のような自分が属するコミュニティの発展を願う、と。

当時のMKNのみんなは、実はコミュニティ発展欲求を、みんなで追求していたと思う。その経験は、僕の価値観に大きな影響を与えてくれました。

そしてたぶん今の僕は、娘が生まれたおかげで、自分の身近なコミュニティだけでなく、地域社会、日本、地球という範囲まで含めてコミュニティ発展欲求が出てきているのかもしれないですね。

 

「より良い社会をつくる」ためのラーニングコミュニティを

-最後に、これからの展望を聞かせてください。

植原:今年からNPOグリーンズでは「より良い社会をつくる」ためのラーニングコミュニティづくりを頑張りたいです。つまり、「より良い社会をつくる」ためにみんなで学んで、みんなでチャレンジする仲間づくり。

-なぜ学び合うコミュニティが大事だと?

植原:より良い社会をつくるためには、みんなで学んでいく必要があると感じていて。正直、ひとりで学んでいても、学習のスピードはすごく遅いし、学べることも限界があるじゃないですか。

特にサステナビリティや気候変動に関しては、ポッと出のアイデアで解決できるレベルの課題じゃないんですよね。問題が複雑に絡み合っていて、その構造を理解することも簡単ではなく、さらには科学的な理解も必要。さらにはビジネスが引き起こしている問題が多いからこそ、ビジネスのことも理解していないといけない。いろんなことをちゃんと把握した上でアクションしないと、根本的な解決にならないことが多い領域なんです。

だから、先に学んでいる人から学ばせてもらうこともあるだろうし、お互いに知っていることを共有しあったりとか、学ぶことをサポートしあったりすることで、学ぶスピードと質を上げていくことが必要だな、と。

例えば、「なんで気候変動って起きちゃうんだろうね?」っていう話とか、「新型ウイルスってどうして発生しちゃったの?」っていう話とかを、みんなで考えて、学んでいく。

それを、押し付けがましい教育講座とかじゃなくて、楽しく学んじゃうみたいな。そういう学びの機会をつくることで、より良い社会に近づいていくと信じています。なので、そうした機会を得ることができるラーニングコミュニティを、グリーンズで作っていきたいです。

(執筆・撮影:山中康司)

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