秘境ツアー添乗員から映画の道へ。“映画っぽくない映画”をつくる映画監督・神保慶政さんが歩む、あてなき旅の軌跡【連載「変わった履歴書の人に、会いに行く。】
#047

秘境ツアー添乗員から映画の道へ。“映画っぽくない映画”をつくる映画監督・神保慶政さんが歩む、あてなき旅の軌跡
【連載「変わった履歴書の人に、会いに行く。】
映画監督神保慶政

連載「変わった履歴書の人に、会いに行く。」は、ユニークな経歴を持つ人のもとを訪ね、その生き方を深掘りすることで、「ふつうの履歴書」という固定概念を問い直します。すべてのひとが、自分をさらに好きになれる履歴書をつくれることを目指して。

 

丸メガネ。うしろで束ねた長髪。バンドT。いつものスタイルで、彼はベンチに座っていた。

下北沢にある「ボーナストラック」という、ちいさなお店が集まった商店街のような施設。ここは、僕が映画監督・神保慶政さんと出会った場所でもある。

僕がここで月に一度開催しているバーイベントに、神保さんはふらっと訪れた。なんでも、下北沢にある映画館で、彼の作品たちの特別上映をおこなっている最中だという。

「映画監督」という肩書きにもおどろいたのだが、それ以上に、上映期間中みずからもコワーキングスペースの会員になり、まちの人々と交流してみる、というスタンスにおどろいた。いったいなぜ、そんなことを?

9月も下旬にさしかかっていた取材の日は、深呼吸したくなるようなすずやかな陽気だった。ボーナストラックには、親子連れや犬の散歩をする人など、思い思いにすごす人々の姿。そのなかの、木漏れ日がかかるベンチに、彼がいた。さっきまでオンライン会議をしていたようだ。

僕も机をはさんだ対面に腰かけ、「ひさしぶりですね」と、すこしおしゃべりをした。現在は家がある福岡に帰っていて、たまにこうして東京にきているという。

神保さんは、独特の時間をまとっているように感じる。僕たちをとりまく画一的な時間とは異なる時間。その時間感覚は、制作・上映にとどまらない彼の活動に共通して流れている気がする。その時間感覚とはなにか。どのようにして育まれたのか。それが知りたかった。

ベンチにふたり腰かけ、レコーダーをまわし始めた。彼がまず語りだしたのは、“決める”ことについて。

映画監督は“決める”仕事

「映画監督って、“決める”のが仕事だと思っています。だから、“通常じゃあり得ない決断”こそしたいっていう気持ちがありますね。『うん、いけんじゃない?』って、根拠のない自信でその状況に飛び込んでみて、あとはなんとかする、みたいな。」

神保さんがしてきた“通常じゃあり得ない決断”のひとつは、子どもが生まれた直後の福岡移住だ。東京出身で、当時神奈川県川崎市に住んでいた彼は、奥さんから「子どもができた」と言われた30秒後ぐらいに「じゃあ、福岡行こう」と決めた。福岡には奥さんの実家がある。けれど、映画をやるうえで、映画産業の中心である東京を離れるのはリスキーなこと。ましてや奥さんは専業主婦を経験したいと言っていて、家計は神保さんだけで支えなければならない。そんな状況での「妻の出身地という以外に縁もない福岡に移住して、実家からさほど遠くない場所に住む」という決断。奥さんには「本当に?」とおどろかれた。

しかし神保さんには、根拠のない確信があった。

「福岡はアジアナンバーワンの映画の国、韓国に近い。移住したら、オファーがあるかもしれない。『現時点では想像つかないところからオファーが来る』っていう、根拠のない確信のもと進むことはよくあるんです。」

すると、おどろくことに、本当に釜山からオファーがきたのだ。都市計画の一環で、滞在して映像を撮る人を探していたらしい。

「当時はまだ映像制作のキャリアもないなかで、『福岡に移住する』っていう大博打に近いことを、『なんとかなるか』と思ってやってみたら、なんとかなった(笑)」

「なにか起こるはず」という根拠のない確信のもと、ある状況に飛びこむことを、神保さんは繰り返している。“決める”ことで、なにかおもしろいことをまき起こす。だから、“決める”のが映画監督の仕事だと、神保さんはいう。

「子ども向けに映画制作のワークショップをやることがあるんですけど、僕はいつも、“で”と“が”の違いを説明するんです。 『白“で”いっか』じゃダメだと。『白“が”いい」って決めるのが大事だから、『が』って言ってくれと。」

今では“決める”ことをその行動の指針にしている神保さん。だが意外にも、かつては決めることが得意ではなかったのだという。

「ある意味、僕ができなかったことを子どもたちに教えてるのかなって今思いました。ははは(笑)」

 

“決める”ことが苦手だった

神保さんは、1986年、東京都で生まれた。子どものころ、“決める”経験があまりなかった。人生は、決められたレールの上を歩むのが当然だと思っていた。

「小中高一貫の学校に行ってたし、『中学どこにする』とか、『高校どこにする』みたいなことは、考えたことがなかった。父親は商社に勤める会社員、母親は専業主婦。父親が夜遅く帰ってきて、 土日もしばしば疲れて午後まで寝っぱなしなる姿を見て、『いずれ自分も会社に入って、こういうふうに働くのか』っていう、固定観念みたいなものがありました。」

大学に進学したあとも、やりたいことは特になかった。むしろ、将来やりたいことを聞かれるのはプレッシャーに感じた。卒業して、会社に就職する。敷かれたレールの上を歩むのが当然だし、「そうしなければ、人生は生きれない」と思っていた。

神保さんを変えたのが、一人旅だ。それも、目的も決めない、“あてなき一人旅”、である。

大学生になった神保さんは、青春18きっぷで日本各地を旅するようになった。目的地も決めず出発し、漫喫に泊まりながら、うろうろする。旅するなかで痛感したのは、「決断をしないと、旅は圧倒的につまらない」ということだ。

「最初に一人旅した時、『マジで暇だな』と思ったんですよ。誰とも話さない日もある。自分で楽しみを見出さないと圧倒的につまらない。だから、自分で旅を演出しなきゃいけない。無目的だからこそ、おもしろくなるようにその都度決断をしていかなきゃいけない。」

はじめから目的地もコースも決まっている旅であれば、それなりにたのしい体験が高確率でできるだろう。けれど、砂浜で見つけた小瓶をあけるような、想像を超える体験をもたらしてくれるのは、目的を決めず、都度決断していく旅だ。神保さんが出会ったこんな光景のように。

「20歳くらいのときに広島で見た灯籠流しの光景を、今でも覚えています。色とりどりの灯篭が、川を流れていく。綺麗なんですけど、 空気が、すごく悲しい。あの悲しい空気を強烈に覚えていて、あとで『せんそうはしらない』っていう映画の中で再現したんです。」

神保青年のあてなき一人旅はつづく。大学3年のころ、イギリスに留学。学校がバスを出し、オックスフォードに行くようなときも、定番のハリーポッターのロケ地のことは気に留めず、 神保さんは早々に「じゃ! 夕方会おう」と一人行動をしてアナログ・レコード市などに行っていた。

イギリスでの体験は、その後の神保さんの人生に大きな影響をおよぼした。よく訪れたのが、ブリティッシュパブ。扉をひらけば、そこにはさまざまな国籍、民族、文化を持つ人々がいた。彼ら・彼女らは、「生きたいように生きればいいんだよ」とでもいうように、自分の人生を謳歌していた。

かつては「レールの上を歩まないと、人生は生きれない」と思っていた神保さんも、「これはもう、やりたいことをやるっていうのでいいんじゃないか」と、次第に思うようになっていった。

 

旅行会社に就職

4年生の春に帰国した神保さんは、PC画面に向かって苦笑いをしていた。いざ就職活動を始めようと思い、就活サイトを開くと、「就活はもう終盤!」の文字。「いや、僕これから始めるんすけど、みたいな感じで(笑)」。

周囲から遅れての就活開始。まず志望したのは、興味があった映画関連の企業だ。映画に詳しいので、何社かいいところまではいった。しかし、あえなく全滅した。

「変な映画が好きなんで、『変なやつだ。こいつは映画を広める側じゃなくて、つくる側だ』って思われたんじゃないかなと。そこで僕もつくる側の意識が初めて芽生えたので、いまでは落としてもらって感謝しています」

映画がだめとなれば、他に興味があるのは、旅行だ。そう思って旅行会社の求人を探してみたが、もう大手の募集は締め切られていた。残っていたのは、マニアックな旅行会社だけ。

「『変わった人いつでも募集中!』みたいな。それで応募したら、すべて通ったんですよ(笑)。『これはそういうことか』と思って、1回就職してみることにしました。」

神保さんが選んだのは、なんと“秘境専門旅行会社”。シルクロード、ヒマラヤ、サハラ砂漠など、マニアックなツアーを提供する会社だった。そこから、日本と海外を往復する日々がはじまる。インド、ブータン、パキスタン、バングラデシュ、スリランカ、チベット…。訪れた国はインドやブータンなどのチベット文化圏が多く、同じ国に何十回も行くようになる。

そんな日々の中で、意外にものちの「映画監督 神保 慶政」の素地ができていった。

「最初は手配を担当したんですが、ツアーの企画も、添乗も、手配も、広告物制作も、全部やらなきゃいけない環境でした。そのあとは営業を担当したんですけど、これも見積もりをつくる、手配する、人を統率するって仕事。これって、結構映画制作に近いんですよ。だから、図らずも映画の基本は旅行会社で学んだんです。」

 

映画の道へ

仕事は大変だったが、なかなか訪れることのできない土地に訪れることができる仕事は、楽しくもあった。しかし、就職して2年半が経つ頃、神保さんのなかで「これでいいのだろうか?」という疑問が浮かんできた。

「その仕事って、『ものすごく強烈にインド好きだ』とか『旅が好きだ』っていうんじゃないと、 続けられない。旅好きのお客さんに太刀打ちできないし、同僚も『強烈に中央アジアが好きだ』みたいな人ばっかりなんで、 肩を並べて仕事できないわけですよ。僕も旅行は好きだけど、 心の中では『他のものの方が好きだ』ってわかってるんで、『続けるのは、お客さんにも同僚にも失礼だな』と思って。」

旅行より好きなほかのもの。それは、映画だった。神保さんのなかで、記憶に残っている場所がある。それは、中学、高校時代に通ったレンタルビデオ店の、ある場所だ。

「TSUTAYAに、『その他』っていうジャンルの棚があったんです。そこにフランス映画とか、イラン映画とか、日本のクラシック映画とかが入ってるんですよ。僕は、『その他』の欄のDVDをめちゃくちゃ借りていった。観ても、圧倒的にわからない。『なにこれ?』みたいな。その『なにこれ?』って感覚が、すごく好きだったんです。」

自分は映画が好きだ。就活の時はひろめる側として応募したけれど、今度はつくる側、映画監督を目指してみよう。そう思った。敷かれたレールを、いよいよ降りるときがきたのだ。この先どうなるかはわからない。けれどあの「その他」の映画たちのように、お決まりのレールから脱線し、圧倒的にわからない人生に飛び込んでみるのもおもしろいじゃないかーー。

「映画って、『時間芸術』だって言われてます。旅行業という、ある種非日常の時間っていうのを演出する仕事を経験した上で、『僕の考えてる時間っていうものを表現したい』っていう気持ちが湧いてきました。」

さいわい実家暮らしで、添乗手当てもついていたこともあって、貯金もたまっていた。神保さんは、2011年に2年半勤めた旅行会社を退職。あてなき人生の旅が始まった。

あてなき旅を続けてきた

2012年から1年間映画制作を学び、2013年からフリーで活動を開始。「どうやったら映画監督になれるのか」は気になるところだが、神保さんは「非常に簡単で、言えばなれるんですよ」とあっけらかんと話す。「資格とかじゃないから。たとえば看護師だったら、資格をとらないとダメじゃないですか。でも映画監督は、言えばなれる」。

とはいえ、目的地が書かれた旅のしおり自体を「旅」とは呼べないように、映画監督になるには宣言だけではなく、行動が必要だろう。その点、神保さんの行動力はすさまじい。

独立してすぐの2013年、大阪での映像制作者の支援と映像文化の発信を目的とする「シネアスト・オーガニゼーション・大阪(通称CO2)」に助成企画が通過。大阪市の助成金をもとに、初長編『僕はもうすぐ十一歳になる。』を監督した。昆虫マニアの少年の視点を通して、死生観の変化を描いたこの作品は、2014年に劇場公開。海外の映画祭でも上映されるなど評価され、この映画がきっかけで2014年度の日本映画監督協会新人賞にノミネートされた。

その後、6歳の少女と13歳のムスリムの少年の小さな旅を描いた短編『せんそうはしらない』(2015)、韓国・釜山のスタッフ・キャストと制作した短編『憧れ』(2017年)など、次々に制作。ベルリン国際映画祭「ベルリナーレ・タレンツ」、東京フィルメックス・東京都主催「タレンツ・トーキョー」など、映画祭の人材部門にも数多く選出されてきた。

映画監督としての経歴だけをみれば、順調にステップアップしてきているようにも思える。けれどそれは、彼が歩んだ足跡を他人があとから眺めたとき思うこと。本人は、あてなき旅を続けてきた感覚なのだという。

「目的のない旅が好きだったことが、現在に非常につながってますね。いまだに、あてのないことが好きなんです。たとえば、名刺交換した人を後日訪ねるとき、ふつうだったら何かしら提案とか資料とかを持参するものですね。でも、僕は『無目的訪問』と呼んでいるスタイルで、ただ雑談しに行くんですよね。話の終盤くらいで、ときどき「あの……何か持ちかけがあるとかで来られたと思っていたのですが、そういう訳ではないんですね」と拍子抜けされることがあります(笑)

迷惑に感じる人もいるかもですが、僕は僕なりにそうできる人・無目的訪問したら仲良くなれそうな人を選んでそうしています。でも、実は迷惑がられたりしていて……。はははは!」

 

映画監督として

神保さんの映画は、次に何が起こるかわからない。けれどそれは、不安や混乱だけをもたらすわけではない。僕らは川に笹舟を浮かべてみると、流れのたまりでとどまったり、急な流れにのって大きく蛇行したりするのを目にして、それまで見えていなかった川の流れに気づく。おなじように神保さんの作品は、ふだん気にもとめない日常の時間のながれが、一様でないことを気づかせてくれる。

その感覚は、神保さんの「映画」に対するとらえ方にも通じているのかもしれない。

「映画は、時間の感じ方を表現するものだと思っています。あてもなく出た旅でも、自分でおもしろくなるように決断をしていくと、日常がぶつ切りじゃなくて、流れの中にあるように思えた。その感覚と同じで、僕が考える映画監督は、すーって通り過ぎていってしまう日常のなかにある、ある種の違和感をつかむんです。」

「ぼーっとして過ごしてたら、『今日は秋晴れで、過ごしやすかったなぁ』みたいな感想しかない。だけど映画監督は、『今日はこういう場所で、こういう人がこういう人と出会って、こういうダイナミズムがあった』みたいな、ある種、でっち上げや想像も含めて、物語をつくり出せる。アンテナに引っかかることがあったら、見逃さずにぱってつかめる。 その掴んだものをもとに、『こんな日常を過ごしてますけど、実はこの時間とこの時間って、まぜたら遠いところや、近くて深いとこに行けるんじゃないですか?』って提案するんです。」

神保さんが下北沢で行った特集上映のタイトル『生活の中の映画』は、彼にとっての「映画」をよくあらわしている。まちを歩いているとき、バーで飲んでいるとき、子どもを保育園に送り迎えしているとき。そんな生活の中で、「あ、映画だな」と思う瞬間が、神保さんにはあるのだという。

まちづくりは映画である

神保さんの関心がスクリーンのなか、映画館のなかという枠からとびだし、「まち」という舞台に向かったのは自然なことだったのかもしれない。神保さんは、「まちづくりと映画は、ほぼイコールだと思ってる」という。

「何のために映画をつくるかっていうと、誰かの人生を変える体験をお渡しするため。つまり、幸福を演出するためです。それはもちろん、映画をつくることによってもできる。でも、その頻度を増やすためには、『撮影しない映画、上映しない映画』にアプローチした方が、届く確率が高いんじゃないかと思ったんですね。」

今、神保さんは映画監督として、まちづくり、都市計画に参画している。たとえば、再開発が進むエリアの団地再生の取り組みを映像で記録し、まちづくりに活用する取り組みに関わってきた。今ではその地域で、映像抜きに、まさに「撮影しない」映画監督としてまちづくりに関わっているという。

「まちには、それぞれの物語がある。それを僕は『まちのナラティブ』って言ってます。下北沢の都市開発のプレーヤーの方々も、よくこの言葉を使ってらっしゃるように思います。

それこそここ、下北沢のボーナストラックでも、 いきなり餅つきとかあるじゃないですか。『なぜ?!』みたいなドラマチックなことが起こる。 そこでまた人が出会って……みたいな感じで、映画を撮ってないけど『映画だな』って感じる瞬間が多いんですよ。そういう、『こういうことがあったらいいな』と思うことを起こすのも、映画監督ができることだと思ってます。」

福岡に住んでいながら、特集上映の期間中は下北沢に滞在したのも、神保さんにとっての「撮影しない映画、上映しない映画」の一環だ。地域のコワーキングスペースで作業をしてみる。「シモキタ園芸部」という園芸の取り組みに参加してみる。保育園を訪れてみる。あてもなく、無目的に。まるでしずかな湖面に波紋がひろがるように、自分という小石がなげこまれたことでうまれた変化をすくいとる。実際、特集上映のトークショーや上映前のマナー動画では、神保さんが下北で出逢ったひとたちが登場した(僕もそのひとりだ)。

すーっと通りすぎてしまう日常の時間に波紋をおこし、違和感をすくいとる。すくいとった違和感をくみあわせ、いれかえ、かたちにし、まちに返す。そうして起きた波紋のなかから、また違和感をすくいとる……。そうやって、なにもない日常を、おもしろいものに演出する。それが映画監督なのだとしたら、神保さんはまさに映画監督を生きている。何億、何十億の興行収入を目指すような、大きなレールにのるキャリアではないかもしれない。けれどそれでいい、それがいいと彼は思っている。

「今では、『自分は変な人だ』っていう、『その他』の自覚があるんです。以前、撮影で鹿児島の枕崎に行って、日本最南端の終着駅を見たとき、『やっぱり僕って、こういうとこにたどり着くんだな』って思いました。最南端。真ん中じゃないんだなって。はははは!」

「話しながら思い出しましたけど…」と、現在が過去の記憶につながり、過去の記憶が現在につながっていく。インタビュー自体が、あてもない旅のようだった。

撮影が終わると、「このあと、上映中に知り合った人がいるビアスタンドでちょっと飲んできます」と言って、神保さんは下北沢のまちへ消えていった。

彼は今日も、どこかのまちを旅しているんだろう。

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