ページが見つかりませんでした – Proff Magazine(プロフマガジン)は“誰か”の人生を通じて、あなたの生き方を再発見する、ウェブマガジン。 スマート履歴書&職務経歴書「Proff(プロフ)」が運営しております。 https://mag.proff.io Proff Magazine(プロフマガジン)は“誰か”の人生を通じて、あなたの生き方を再発見する、ウェブマガジン。 スマート履歴書&職務経歴書「Proff(プロフ)」が運営しております。 Fri, 15 Mar 2024 04:52:06 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=5.9.9 フォトグラファー兼、人力俥夫。「起きると涙が止まらなくなった」どん底の先でみつけた光 【連載「変わった履歴書の人に、会いに行く。】 https://mag.proff.io/interview/nobuhikoshimizu/ Fri, 15 Mar 2024 04:52:06 +0000 https://mag.proff.io/?p=1392 今とは150度性格がちがった少年時代

入った瞬間、「この部屋、ノブさんらしいなぁ」と思った。自宅にお客さんがきたときや、ノブさんやパートナーがくつろぐスペースだという自宅の2階には、植物、ベース、カメラ、陶器、靴など、彼の好きなものが詰め込まれていた。

取材のために自宅を訪ねたこの日は、12月の下旬。外は少し寒かったが、部屋はぽかぽかとあたたかい。聞けば「30分前からストーブつけておいたので」とノブさん。気配りがすごいなぁ、と感激する。

ホスピタリティがあふれる、明るい人。それがノブさんの第一印象だった。だから、以前共通の友人の紹介で会ったとき、「小さい頃は内向的だったんですよ」と聞いて、ちょっと信じられなかった。

「そう。今とは180度とはいわないけど、150度くらいちがう性格で。かなり太ってたのもあって、内向的でした」

家系的に太りやすい体質だったこともあり、小学4年の頃には40キロ以上に。健康的にも懸念があるということで、心身の育ちに特別な配慮が必要な児童・生徒が通う「養護学校」(現在の特別支援学校)に通うことになったらしい。10歳にして親元を離れ、単身、寮での暮らしが始まった。

「生まれも育ちも葛飾なんですけど、葛飾区の特別支援学校が千葉の鋸南にあるんですよ。1階が学校で、2階が寮になっていて、そこで1年間、寮生活。食事は『今日は何キロカロリーです』みたいな感じですべて管理されて。校舎の裏は山で、3分歩くと海なんです。もう、東京とは真逆のところ。親元から離れて、最初はワンワン泣いてました」

しかし半年が経つころには、ノブさんは変化していた。心から、ここでの生活を楽しめるようになっていたのだ。

「基本的に、行動は子どもにゆだねられてるんで、休みの日はなにしてもいいんです。僕は毎日釣りをしてました。あるときは先生がいろんな道具を持ってきて『山に行くぞ!』って、一緒にツタだらけのジャングルみたいなとこを切り分けていくとか。東京じゃ絶対できない娯楽を肌で味わってましたね」

学校の目の前の海岸では、海岸線の向こうに赤い夕日がしずむ。その光景を、「おもしろいことが、世の中にはいっぱいあるんだなぁ」という気持ちとともに、ノブ少年は眺めていた。

 

人力車と、写真と、音楽。好きなことをしてすごした日々

1年間の鋸南での生活を経て、東京に戻ってきたノブさん。その後、かつて内向的だったのが不思議なほど、世の中のおもしろいことと出会っていった。

ひとつは音楽。好きだったBUMP OF CHICKENにならって、中学を卒業する頃、同級生4人でバンドを結成した。ノブさんは「ベースっぽいから」という理由でベースに。その後、高校でも軽音部に入った。「喜怒哀楽を、すべて音に乗せられる」という感覚に魅せられたノブさんは、「音楽は、ずっと続けていこう」と思うまでになった。

もうひとつは写真。大学生になった20歳ぐらいのとき、 免許合宿のために栃木に行った。そこは周囲にはなにもないようなド田舎。やることがないので、母親からもらったコンデジで、好きだったアニメ監督・庵野秀明の構図を真似て、たくさん写真を撮った。「そしたら、おもしろいじゃん、と思って。写真の原体験があるとしたら、そのときですね」。

そして、わすれちゃいけないのが、俥夫の仕事。その出会いは偶然だった。

「大学1年か2年のとき、お世話になってた同じサークルの先輩がいたんです。その人が俥夫のバイトをしてて、『今度オフィスこない?』って誘われたから、ひょこひょこ行ったんですよ。そしたら、会社の人が『今から面接するね』って。『話がちがうんだけど…』って思いつつ、いろいろ話したら、『大丈夫そうだね、じゃあよろしく』って言われて(笑)。まあ、自分も興味はあったんで、じゃあやるかってことで、そこから俥夫を始めました」

音楽に写真に俥夫。次々におもしろいことにのめり込んでいった。あれ、就活は?と思って尋ねると、「まったくしたことないですね」と即答。「僕は死ぬまでスーツを着たくなかったので」。キャンパスではみんながリクルートスーツを着てるなか、ベースのケースを抱え、長髪をなびかせて歩いていたらしい。

「母親には、『25歳までは好きにやれ』って言われてたので。25歳までは人力車と、写真と、あとは音楽と。本当に好きなことしかやらなかったです」

 

気持ちが落ち込み、実家の会社を辞めざるをえなかった

約束の25歳になった。芽は…出なかった。音楽活動ではりんご音楽祭という大きなフェスに出るまでになったものの、それで食べていく、というところまでには至らなかったのだ。

「いい加減、自分のケツを拭かないといけないな」と思っていると、親から「お前、職人やるか」と声をかけられた。ノブさんの実家は、葛飾区の江戸切子職人だ。ノブさんも「やってみっか」という気持ちになり、実家の会社に入ることにした。

が、待っていたのは、つらい日々だった。

「まあ、端的に言うと、合わなかったんですね。何かをつくるのは好きだし、 切子が素晴らしいのはわかるんですけど…。たとえば、80点のものをつくろうと思っても、30点のものしかつくれないんですよ。家族や先輩の職人からの期待も感じていたので、プレッシャーもありました」

自分はこの家で何ができるんだろう…。そんなモヤモヤが積もっていった。会社に入ってから1年経つか経たないかのある日、張り詰めた緊張の糸が、プツンと切れた。

「朝起きたら、本当に、動けなくなったんです。なんかわかんないけど、ずっと涙が出てくるんですよ。母親に、すいません、今日休ませてくださいって言って。 何をするでもなく、ずっと天井を見ながら泣いてました」

1週間ほど休んだが、状態は改善されない。それどころか、どんどん苦しくなっていった。病院に行くと、うつ病の疑いがあると診断された。

休職とカウンセリングをはじめたが、悲しみや罪悪感はなくならなかった。「自分で『やる』って言ったのに、みんなに迷惑をかけてしまってる」。実家に住んでいたため、切子をつくるときのガラスを削る音が聞こえてくる。その音を聞くのが、つらかった。

「ある日、母親の前で、 感情が爆発しちゃって。息も絶え絶えに泣きまくったんです。そしたら、『私はあんたに職人になってほしいわけじゃなくて、 元気に生きてることが1番の幸せだから。無理して家の仕事をしなくていいんだよ』って言われて…。それも否定したいんですけど、体が言うことを聞かないんで。結局、1年くらいで実家の会社を辞めました」

 

そうだ、俺、写真を仕事にしよう

無職になり、失意のなか半年ほどぼんやりとした生活を送っていたある日。ふと、あの小学校4年の時に過ごした学校に行きたくなった。

そこで、パートナーと一緒に、15年ぶりに鋸南の学校を訪れることにした。すると、当時お世話になった先生が、まだいたのだ。ノブさんのことも覚えていたようで、「卒業生が来てくれたよ!」と、談話室に子どもたちを集めてくれた。

「今なにしてるんですか」「ここにいたときはどんなテレビみてたの」。かつての自分くらいの年齢のこどもたちが、まっすぐなまざなしで問いかけてくる。ひとつひとつの質問に答えていると、ノブさんは自分の変化のきざしに気づいた。

「言葉を振り絞って、『実はこういう仕事をしてたんだけど、今ちょっとお休みもらってるんだよね』とか、いろいろ話してたら、 なんかわかんないけど、『自分、ちゃんと話せてるな』と思って」

学校を後にし、目の前にある海岸を歩いてみた。10歳の頃、毎日眺めていた光景が、そこにはあった。うち寄せる波の音、頬をなぜる風、空を舞うカモメたち。海岸線の向こうでは、夕日が沈もうとしていた。

ノブさんは、気が付くとカメラをかまえ、シャッターを切っていた。

「妻と一緒に夕日を眺めながら、パシャって撮ったら、あぁ、やっぱり写真好きだなぁって。ぼんやりと思ったんです」

旅を終え、実家に戻ってから数ヶ月後。それは唐突におとずれた。目を覚ました瞬間、あるひらめきがノブさんの頭に浮かんだのだ。

「そうだ、俺、写真を仕事にしよう」

理屈もなければ、勝算もない。だけど、そのひらめきは力強く、ノブさんの背中を押した。

ノブさんはすぐ、「写真 仕事にする」と検索していた。

「そしたら、『フリーランスフォトグラファーになるためには開業届を出せ』って書いてあったから、起きて身支度して税務署に行って、開業届を出して。その日が、フォトグラファーとしてのキャリアのスタートでした」

その後ノブさんは、俥夫の仕事で知り合った知人が立ち上げる劇団の撮影をしたことがきっかけで、2019年にはビートたけし氏が名誉顧問を務める『えどまち たいとう芸楽祭』に出演するチーム東京アフロの専属フォトグラファーに任命されるなど、順調にキャリアを積んでいった。現在では、人力車での観光と撮影を組み合わせた、独自の取り組みも始めている。

どんな川も、たどっていけば1滴の雨水にたどりつく。人生もきっとおなじだ。どんなユニークな活動をしているひとだって、そのはじまりは、ほんの些細な、けれど閃光のようにかがやくひらめきだったりする。

村上春樹にとって、それはヒルトンの二塁打の、あの瞬間だった。ノブさんにとっては、あの日のあの夕日に向けて、パシャリ、とシャッターを切った瞬間だったのかもしれない。

 

俥夫×フォトグラファーの活動

ヒルトンの二塁打や海岸の夕日のように、ノブさん自身も誰かにとって、人生の転機に立ち会う存在であるのかもしれない。それはたとえば、俥夫の仕事をとおして。

僕もあまり知らなかったのだが、「俥夫は単に人力車をひくだけの仕事じゃない」とノブさんが教えてくれた。お客さんに合ったコースを考え、提案し、コミュニケーションをとり…と、さまざまな能力が求められるのだそうだ。

そして、お客さんは毎回、年齢も性別も、話す言葉も、考え方もちがう。「だからこそ、この仕事はおもしろいんですよ」とノブさんは力を込めて語る。

「お客さんのなかには、人生の岐路に立たされてる人も多いんです。悩みを抱えてたり、葛藤してたり、何かと戦ってたり。人力車をひいてると、ある瞬間に、お客さんがポロッと悩みを打ち明けることもあります。僕らは俥夫は、いつも試されてるんです」

ノブさんがいまでもつよく印象に残っているのは、こんなお客さんの話だ。

「女性おふたりのお客さんで、おひとりが杖をついていて、もうひとりが支えているんですよ。杖をついてる方が50代前半、支えている方が40代前半くらいかな。

浅草を紹介しているなかで、『おふたりはどうしてここに来られたんですか?』って聞いたたら、『実は私たち、末期ガン患者のコミュニティで知り合って、動けるうちに、いろんなところを見に行ってたくて、2人で旅をしています』っていうんです。

案内できるのは30分。その話を聞くまでに、すでに5分使ってました。あー、残り25分か。僕はこの25分で何ができるかなって、めちゃめちゃ考えました。考えに考えて、いろんなところをご案内して、『わあ、こういうとこもあるんだね』って喜んでもらえて。僕は、うまくいってよかった!と思いました。

最後にお見送りするときに、いつもであれば『また来てくださいね』って言うんです。だけど、僕、その言葉が出なかったんですよ。そのひとことって、言っていい言葉なのかなって。その言葉が、相手にとってハードルになってしまわないかだったりとか、いろんな感情が湧いてきて…。今でも、あのときどうすればよかったんだろうって、答えが出ないでいます」

ノブさんはこんなふうに、人生の岐路に立ち会い続けている。責任も大きく、葛藤や後悔もはらんでいるだろう。だけど、「そういう人と出会えるから、この仕事はおもしろいなって思います」と、ノブさんは目を輝かせながら語ってくれた。

 

経歴にはあらわれないもの

ノブさんに、あのとき鋸南の海岸で撮った写真を見せてもらった。

スマホの画面にうつしだされたのは、しずみかけた陽に照らされる海と、パートナーの姿。

提供:清水さん

「いまでもこの写真をみると、僕の中で、なにかがすごい揺れるんですよ。なんか、ぞわぞわってする。この写真は好きか嫌いかでいったら、かなり好きです。その時の自分の気怒哀楽が、全部写真の中にふくまれてるので。多分、今じゃ撮れないような気がします」

ノブさんは、あのとき、あの海岸で感じたものをかみしめるようだった。

いまではホスピタリティにあふれ、外交的に見えるノブさん。でもそんなノブさんのなかに、人と話すのが得意ではなかったり、仕事ができず涙を流していた頃の彼もいる。

その頃のノブさんの姿は、経歴にはあらわれない。だけど、この夕日の写真からは、たしかに彼らの姿も感じとれる気がした。

 

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元ギャル和菓子屋女将、議員になる。“燃えカス”まで落ちて気づいた、まちへの愛【連載「変わった履歴書の人に、会いに行く。】 https://mag.proff.io/interview/moemisakaki/ Thu, 07 Mar 2024 21:00:22 +0000 https://mag.proff.io/?p=1370  

和菓子屋女将、市議会議員になる

その駅前商店街では、店のいくつかはシャッターが降ろされ、いくつかは駐輪場になっていた。

今は歩いている人もまばらなこの道も、かつてはたくさんの人で賑わっていたのかもしれないな…と、センチメンタルな感情に浸っていると、ちりんちりん、と風鈴の音が聞こえてきた。

音の先にあったのは、「五穀祭菓 をかの」。埼玉県桶川市で137年続く老舗和菓子店だ。

店に足を踏み入れると、色とりどりの和菓子に目を奪われる。さっそく人気商品「葛きゃんでぃ」を買って、しゃくしゃくとした不思議な食感に感動していると、あるビラが目に入った。

「桶川に生まれ育って28年 和菓子屋をかの女将 さかきもえみ」

上に小さく「討議資料」、と書かれたそれは、見るからに政治活動の資料だ。

「え、榊さん政治家になるの!?」と、僕はちょっと混乱してしまった。だって、今日は榊さんに、なぜギャルから、137年続く和菓子屋の女将になったのか、という話を聞きにきたのだ。

どういうことだろう、と戸惑っていると、約束の時間ぴったりに、「おまたせしました〜!」と榊さんがやってきた。

正直に言えば、僕は「取材慣れしている、さばさばとした方なんじゃないかな」と身構えていた。なにしろ、榊さんはテレビや雑誌など、数々のメディアで取り上げられている、ちょっとした有名人だ。

しかし、目の前に現れたその人は、初対面の僕にもくったくのない笑顔で接してくれる、朗らかな方だった。

さっそく軒先に座って、話を聞くことに。
政治家になるとは、いったいぜんたい、なにがあったのだろう?

「去年の7月に、経営の立て直しっていう大きな目標を達成したんです。でも、それから燃えカスみたいになってしまって…」

それから榊さんが語ってくれたのは、メディアで取り上げられるキラキラとした彼女の姿からはうかがい知ることのできなかった苦悩と、それでも一貫して持ち続けてきた、まちへの思いだった。

 

地域の人々の愛情をうけて育った

1995年、榊さんは埼玉県桶川市で明治20年から続く老舗和菓子店の次女として生まれた。小さい頃は、店の周りに甘味処も花屋さんもパン屋さんもあり、活気があったという。

「三輪車をジャー!ジャー!って走らせて、パン屋さんに行って、『今日ね〜!こういうことがあってね〜!』みたいに話したり、八百屋さんにおつかい行って飴をもらったり。なんか、みんな自分のおじいちゃんおばあちゃん、お父さんお母さんみたいな感じでした」

地域の人々の愛情をいっぱいに受けて、榊さんはこのまちが好きになっていった。

一方で学校では、友だちはたくさんできたものの、勉強でも運動でも、他人と競わなければいけない環境に苦しさを抱えていたらしい。

「誰かに勝って上に行かなきゃいけない、みたいなことが、ほんとにしんどくって。勝った時に感じる人からの敵意も、負けた時に感じる人からの失望感も、すっごい嫌だったんです」

ある日の図工の授業でのこと。榊さんが親からたくさん持たされた材料を見て、友だちが「いいなぁ!」と、うらやましそうに言った。それを聞いた榊さんは、「いいよ、あげるよ!」と、材料を気前よく手渡してしまった。

榊さんの手元には限られた材料しか残らず、先生から材料をもらうことに。結局、その友達が作った作品は賞をとり、榊さんは親から「あんなに用意したのに!」と、こっぴどく怒られたのだった。

「まぁ、当然怒られますよね(笑)。でも、自分が使ってもどうせそんなに上手に作れないから、友だちにあげて、役に立てる方がいいなって思ってたんです」

自分がしたことで、他人に喜んでもらえるのって、なんて嬉しいんだろうーー。その頃から、榊さんの胸の内に「将来は人の役に立つ仕事がしたい」という思いが芽生えていた。

 

私、このまちの人たちが大好きだったじゃん

高校生になった榊さんは、ギャルになっていた。

2000年代前半ごろに隆盛を極めたギャル文化は落ち着き始めていたが、それでも榊さんは「劣等生の自分は、おとなしい格好をしていたらいじめられるかもしれない」「もっと自分に自信をつけたい」という思いから、ギャルの格好をして派手に振る舞うように。高校生のときには、毎日遊び呆けるようになっていた。

もちろん、「実家を継ぐ」という気持ちはまったくナシ。将来は、高校の国語先生になろうと思っていた。

しかし、その後進学した教育学部で、その目標はうちくだかれる。ギャルは自分しかおらず、周囲から浮いてしまったうえに、要領が悪く授業にはついていけない。教員実習では教員同士の人間関係のわるさにも触れ、「私は先生には向いてないな」と、あえなく断念。

目標を失って大学にも行かなくなり、アルバイト三昧の日々を送っていた大学2年の榊さんに、大きな事件が起こる。実家の和菓子店を切り盛りしていた母親が倒れたのだ。

幸い命に別状はなかったものの、しばらく入院をすることに。両親が「店を潰すことも考えなければ…」と話し合っているのを耳にし、榊さんは動揺した。しかし、それでも「自分が継ぐ」という選択肢は考えておらず、「誰かがなんとかするだろう」と考えていた。

「ほんとに、運命ってありますよね」と、現在の榊さんが振り返る出来事があったのは、母が倒れてから約1週間後のこと。地元のコンビニに向かって歩いていると、たまたま小学校の同級生のお母さんに会った。そして、「卒業式で、『将来はお店を継ぐ!』って言ってたけど、継がないの?」と言われたのだ。

「え?そんなこと言ってたっけ?」。自分でも全く覚えていなかった榊さんは、家に帰り卒業式のビデオを見かえした。すると、映っていたのは「私がお店を継ぎます!」と、胸を張って語る自分の姿。榊さんの身体に、衝撃が走った。

「今の不甲斐ない自分よりも、小学生のころの自分のほうがかっこいいな…」。そして、同時に頭に浮かんだのは、大好きなまちの人たちの顔だった。

「あ、そうだ、私、このまちの人たちが大好きだったじゃん!と思って。小学校の卒業式で『継ぎます』って言ったのって、小さい頃からこのまちのみんなが私を育ててくれて、まちも人もみんな大好きだったから、私も大人になってみんなの一員になりたいって思ったのが理由で。『もしお店がなくなったら、通ってくれてるお客さんたちは悲しむのかな』『従業員のひとはどうするんだろう』という考えが浮かんできて、私が継いだら少しはみんなの役に立てるかな、って思ったんです。」

自分の根っこにある思いに気づいてからの榊さんの行動は、はやかった。その日のうちに両親に、お店を継ぐ意志を伝えた。両親は止めたが、榊さんの決意はかたく、その次の日には大学に退学の意思を伝えた。

和菓子屋女将としての過酷な日々

大学を中退した榊さんだったが、社会人経験もないまま働いても役に立てないだろうと考え、バイト先だったアパレル会社で働かせてもらうことに。1年ほど接客業を経験した後、20歳の時に実家の和菓子店「五穀祭菓 をかの」に入社した。

その後の榊さんの活躍は、テレビや雑誌などでも取り上げられたから、ご存知の方もいるかもしれない。

1年目に開発した「葛きゃんでぃ」は、その後テレビのゴールデンタイムで紹介されるなど大ヒット。だが、注文が殺到したことにより店のECサイトのサーバーがダウン。生産も追いつかず、職人が辞めてしまい、知人からの心ない言葉やSNSでのアンチコメント、従業員や家族の苦しむ様子を見て、毎日申し訳なさに涙を流しながら仕事をした。

しかし、同業者や取引先からの「ありがとう」という言葉を聞き、榊さんは「喜んでくれている人もいる。次につなげよう」と前を向いた。SNSでの発信にも力を入れると、数万人のフォロワーがつき、投稿を見て注文してくれる人も増えた。ECショップの立ち上げ、新商品開発、経営改革が功を奏し、売り上げはV字回復。

…と、これがメディアで語られてきた榊さんの成功譚。けれど、現実はもっとシビアなものだったらしい。キラキラとした成功者として描かれることが「実際の自分とのギャップがあって、しんどかったんですよ〜」と、榊さんは笑顔のまま、目線をすこし下に落とす。

「たしかに売り上げはV字回復してたんですけど、もともと借り入れ額も大きかったので、ほんの2年前まで、ずっと資金繰りは厳しくて。『あと30分で銀行にお金振り込まないと、口座が止められちゃう!』みたいな状態を繰り返してたんですよ。従業員も少なくて、お金も足りなくて、仕事量は多くて…どっから手つけたらいいんだろう、みたいな状態でした」

なんとか黒字化は達成したものの、2021年の年末には資金ショートをおこし、黒字倒産寸前に。税理士から、「大きい売り上げを立てないと、来年で潰れてしまうかもしれない」と、深刻な表情で告げられた。

「打てる手はすべて打とう」。そう決めた榊さんは、ただでさえ短かった睡眠時間をさらに削り、1〜3時間しか寝ない毎日を過ごした。毎日店頭に立ち、製造や搬入、ネット販売の発送まですべて関わり、メディアの取材対応もし、新ブランドも立ち上げ…。

なんとか自己資金で経営が回る目処がたったのは、2022年の7月のこと。決算のシュミレーションを見た税理士は「こんな急激な回復見た事ない。よく頑張りましたね、もう大丈夫ですよ」と、榊さんに伝えた。「よかった…」。榊さんの目からは、涙がこぼれた。

 

生きる意味を見失った

映画であれば、ここで「めでたしめでたし」とエンドロールが流れそうなところだ。だけど、実際の人生はそんな単純なストーリーにまとめられない。「実は、ここ1年の方がしんどかったんですよね…。ずっと、『やばいやばい!』っていってたときの方が、幸せって思えてました」。

榊さんは目標を達成したと同時に、失ったものもあったのだ。

ひとつは、当時7年付き合っていた恋人と会う時間がなくなり、婚約を破棄することになってしまったこと。

もうひとつは、生きる意味だった。

「自己資金で回せるようになるっていう目標を達成してからの、目標を達成した瞬間から、 なんか、燃えカスみたいになってしまって…。前よりは余裕があって、ちゃんと寝れるのに、感情に起伏がなくなっちゃって、『幸せってなんだろう?』みたいな」

生きる意味を見失った代わりに残ったのは、キラキラとした成功者としての「榊萌美」像。現実の自分とは異なる、周囲からのイメージが、榊さんを苦しめた。

「メディアにたくさん出たことで、私自身は何も変わってないのに、周りの人の反応が変わっていくのがプレッシャーになってしまったんです。周りの人がより幸せに生きればいいって思ってやってきただけだったから、もっと上を目指していかなきゃいけないのかな、と思ったら、なんか、すごいしんどくなっちゃって…」

ちょっと重たいですけど…と前置きしつつ、榊さんはこう打ち明ける。

「いつ人生が終わっても別に悔いはないな。もうこれ以上求めるものなんてないって。ずっと、ほんとに最近まで、思ってました」

 

このまちの人たちのために、人生を使いたいんです

人はどん底まで落ちた先で、光を見つけることがある。榊さんもそうだった。「いつ人生を終えてもいい」と思うまで落ち込んだ彼女は、仄暗い海の底のような状態のなかで、自らの生きる意味を見つけた。

「『いつ人生を終えてもいい』って精神状態だったから、逆に、このまま終わるよりも全部出し切って終わりたいなって思うようになったんです。自分の好きな人たちが、自分がいたことで、ちょっとでも幸福になれたらいいなって。わたし、死ぬ時には『この人がいてくれてよかった〜!』って、思われていたいんですよ」

彼女が顔を上げて、そう口にしたとき、言葉にぐっと力がみなぎった気がした。

榊さんにとっての「自分の好きな人たち」。それは、明確だ。桶川の人たちである。

このまちの人たちに、幸せでいてほしい。そのために、自分の命を使いたいーー。生きる意味を見失っていた榊さんのなかで、ひとつの覚悟が芽生え始めていた。

「私はずっとこのまちに住んでて、変わっていくまちの状況を見ていて。まちにお金がないから仕方がないとか、何しても変わらないとか愚痴を言うだけだったら、いつか後悔するだろうなって。行動しないで、人に文句を言う生き方だけはしたくないなっていう気持ちもあって」

ギャルで、元アパレル店員で、137年続く和菓子屋の女将で、市議会議員。一見振れ幅の大きいように見える榊さんの経歴だが、実はその根本にある思いは、三輪車で商店街を走り回っていた子どもの頃から変わっていないのかもしれない。彼女は、このまちが、このまちの人たちが好きなのだ。

 

自分の好きな自分でいること

榊さんは、「もう、ずっと胃がキリキリしてますよ〜!」と笑う。「まちのために、なんてエゴなんじゃないか」、「私なんかに出来るのかな」、「もしダメだったらどうしよう」と、日々悩んでいるらしい。

でも、振り返れば、榊さんはずっと胃がキリキリするような選択をしてきたんじゃないか。どうして、あえて苦しい方の道を選ぶんだろう?僕だったら、楽な方を選ぶけれど。

「私は、『自分の好きな自分でいる』っていうことを大事にしてるんです。発言したり行動したりするときに、自分のことを好きでいられる方向に進んでます。他人の思うかっこいい生き方を真似しても『あれ?自分って何のためにやってるんだろう』って、迷子になるんですよ。だから、自分の信念を見失わないのが大事」

他人が求める楽な道と、自分のことを好きでいられる険しい道があるなら、きっと榊さんは後者を選んできた。和菓子屋を継ぐことを決意したときも、議員になると決めたときも。

「目的さえ見失わなければ、自分の軸がブレないで生きれますよね。ブレてる私が言うのもあれですが(笑)」

と、榊さんは自嘲気味に笑う。だけど、僕には榊さんの経歴が、決してブレているとは思えなかった。

世間に注目され、たくさんの人から期待され、多くの「こうしたほうがいい」というアドバイスを受け、聞き入れながらも、最後は自分の意志をつらぬいてきた。それが榊さんの生き方だ。

自分の道を自分で決めること。自分が好きな自分でいること。そうして積み重ねられた経歴は、どんなに紆余曲折があっても、空白があっても、振り返ればひとすじの軌道を描いている。そのひとにしかない、かけがえのない軌道を。

榊さんが三輪車で走った、この商店街の道は、どんな未来に続いているのだろうか。

 

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「好き」を言えない苦悩の先に、人生を変える出会いが待っていた。 フルーツサンド職人・西村隆ノ介の“みんなの「好き」を肯定する”生き方 https://mag.proff.io/interview/ryunosukenishimura/ Tue, 19 Sep 2023 21:00:21 +0000 https://mag.proff.io/?p=1339 フルーツサンド職人、だけじゃない

(画像提供:西村さん)

–すごい、青い! これ、天然の色ですか?

西村:はい。バタフライピーっていうハーブの色なんです。

–へぇ〜。おもしろい。フルーツサンドってこんなにいろんな種類があるものなんですね。

西村:ありがとうございます! 自分はそのときどきでオリジナルなフルーツサンドをつくってるんですよ。果物を煮詰めたりとか、クリームに色をつけたりとか。あ、色っていっても着色料は使わないんですけど。

–添加物は使わないようにしてるんですか?

西村:はい、できるだけ。生クリームと白砂糖も使ってません。

(フルーツサンドの写真を見せて)これは神保町の本屋さんとコラボしたときのもの。 薄くスライスしたリンゴをいっぱい重ねて、本の小口みたいにして。撮影のスタイリングも撮影も、自分でやったんですよ。

–ぜんぶご自分で。「フルーツサンド職人」たるゆえんですね。

西村:ふふふ!

–フルーツサンド以外にもいろんな活動をしてますよね。

西村:そうですね。撮影のスタイリングをしたり、グラフィックデザインをしたり、文章を書いたり、イベントをやったり…

–自己紹介がむずかしそうだ(笑)。

西村:そうなんですよ(笑)。肩書きは場面に合わせて変えてます。メディアでは「フルーツサンド王子」って呼ばれることが多いですけどね。自分で王子っていうのも恥ずかしいので、自らは名乗ってませんが(笑)

 

原点は、月見団子

–「食」に興味を持つようになったのは、おばあちゃんが旅館を経営していたことがきっかけなんだとか。

西村:はい。母の実家が熊本市の中心地に近い、水前寺っていうとこなんですけど、そこで。自分が生まれたときには、もう旅館はなくってたんですけどね。

うちの母親、3姉妹だったんですけど、おじいちゃんは戦時中に亡くなってるので、おばあちゃんが女手ひとつで姉妹を育てて。

3姉妹は、旅館の1階にある喫茶店で働いてたんです。だから母も調理師免許を持っていて、家でもご飯をたくさんつくってくれました。

それが美味しかったから、「お母さんは料理好きなんだなぁ」と思ってたんです。でも大人になってから聞いたら、「料理は好きじゃない。つくらなきゃいけないからつくってたんだよ」って。

–えー(笑)。

西村:えー、ですよね(笑)。でも、いつも料理をつくってくれてたから、自分も手伝うようになったんです。それで、小学校低学年くらいだったかな。ある日、新聞にお月見団子のレシピが載ってたのをみて、「どうしてもつくりたい!」って思っちゃって。

その日、母は出かける予定があったんです。だから、ひとりで粉をこねて、丸めて、茹でて、 砂糖醤油のタレと、ピーナッツのタレをつくって…。それが料理のスタートでしたね。

 

ものづくりの道へ

–そこから、ストレートに料理の道に進んだわけじゃなかったんですよね。

西村:はい。中学生のころは獣医とか薬剤師に憧れてたんですよ。だけど、高校に入ったら、理系の授業が一気に苦手になってしまって。これは理系に進むのはむりだなぁと。

じゃあ路線変更しようってなって、自分の好きなことはなにか考えたら、ものづくりだったんです。

–ものづくり。

西村:小学生の頃から、図工とか家庭科とか美術の授業が好きだったんですよね。それで選んだのが、東京都立大学、当時は首都大学東京っていいましたけど、そこのシステムデザイン学部。

–美大、ではなく。

西村:あ、僕一浪をしてるんです。現役のとき美大を受けたけど、うまくいかなくて。一応、合格した大学もあったんですけど、第一志望でもなかったし、私立の美大ってお金がかかるので、 親に負担かけちゃうしな、っていうのもあって。

いろいろ調べたら、東京都立大にデザインを学べるコースがあると。しかも都立なので、学費も安い。

–あー、そうか。

西村:で、入ってみたら、カリキュラムが「ひとまず全ジャンルをやる」みたいな感じだったんです。ウェブサイトもつくるし、グラフィックもやるし、家具もつくるし、空間デザインとか人間工学を学んだりもする。時計を解体して部品ごとに図面を描く…みたいなこともやるんです。

で、いろいろやるなかで気づいたのは、自分は図面を描くのはあんまり向いてないっていうこと(笑)。逆に、得意だし好きだったのが、グラフィックデザインだったんですよね。本をつくるとか、ロゴをつくるとか。だからフリーペーパーとかアートブックをけっこうつくってました。

西村さんが卒業制作でつくったアートブック(画像提供:西村さん)

初めて入った会社で、心身ともに限界に

西村:だからグラフィックデザインを仕事にしたくて、就活したんですけど、うまくいかなくて。一旦フリーランスになりました。

–そうだったんですか。てっきり新卒で企業に就職したのかと。

西村:そうそう、就職する前にフリーの時期があったんですよ。で、カフェのメニュー開発とか看板づくりをやってました。そしたら、数か月経ってから、 就活の時に落ちた会社から声をかけてもらって。その会社に就職することになったんです。

だけど、入ってみたら、まさかのウェブデザイナー枠での採用だったんですね。

–あれ? グラフィックデザイナーじゃなくて?

西村:そうなんですよ(笑)。ウェブに関してはそんなに知識がないから、入社してからなかなかついていけなくて。それに、苦手な上司がいたり、当時はまだ働き方改革がさけばれる前だったので、けっこうブラックな働き方をしていたりもして。

当時の自分の場合は、新入社員は朝イチで出社してコピー機とかの準備をして、夜は終電を逃すこともありました。それで、就職から1年くらいたったあるとき、心身ともに限界がきて、会社にいけなくなっちゃったんです。

 

「好きな分野でものづくりがしたい」と気づいた

西村:会社を休職してから、「自分のやりたいことってなんなんだろうなぁ」って、すごく考えるようになりました。

ものづくりは昔から好き。でも、広告の分野は自分には向いてなかったんだってわかったんですね。向いてない分野じゃなくて、好きな分野でものづくりがしたいけど、じゃあその好きな分野ってなんだろう? って考えたんですけど、「食」は昔から好きだなぁと。

–そこでついに、「食」がでてくるんですね。

西村:はい。それで、食の分野で師匠のように思ってた中山晴奈さんっていうフードデザイナーの方に「今、お仕事お休みしてて、今後は食の仕事をしていきたいんです」って相談したんですね。そしたら、当時できたばっかりの「湘南T-SITE」っていう商業施設で食とものづくりのスタジオをつくるから、立ち上げを手伝ってほしいと。

–「湘南T-SITE」。オープン当初から話題になってましたよね。

西村:はい。僕も「やりたい!」と思ったから、会社は辞めることにして。それから、業務委託で施設のPRだったり、ワークショップの講師だったり、デザインまわりをやらせてもらったりするようになりました。「湘南T-SITE」の仕事は、 けっきょく2年ぐらいやりましたね。

–そこから、「食」の分野でものづくりに関わるキャリアを歩むようになったわけですか。

西村:そうですね。そのあとまたご縁があって、「シゴトヒト」っていう会社が運営してる「リトルトーキョー」っていう場所が清澄白河にあるんですけど、その1階にあるスペースで「食の編集者」としてメニュー開発をしたり、イベントの企画、運営をしたりして。それからまたフリーランスになって、今に至ります。

–ご縁が仕事につながっていったんですね。ところで、フルーツサンドは、いつから?

西村:シゴトヒトで社員として働いた、ちょっとあとくらいかな? 7年ほど前から間借りで飲食を提供する活動を始めたんですけど、一番最初に借りたお店のキッチンスペースがめちゃくちゃ狭くて。そのスペースでつくれるもの、なおかつつくり置きができるものを考えてでてきたのが、フルーツサンドだったんです(笑)。

–じゃあ、ほんとうにたまたま。

西村:はい(笑)。今となっては運命的だったなと思います。

 

自分の好きなことを、言えなかった

–西村さんって、フルーツサンド職人とかデザインとかイベントとか、いろんな活動をしてるじゃないですか。

西村:はい。

–それらに共通するものってあるのかな、って気になってるんです。根っこにある思いといいますか。

西村:あ〜。なんでしょうね…。人に喜んでもらうことは昔から好きで、初めて月見団子をつくったときも、「お母さんに美味しいって言ってほしいなぁ」と思ってたんです。

そういう、「だれかに喜んで欲しい」って気持ちは、今でもありますね。フルーツサンドをつくるときもデザインをするときも、だれかに喜んでもらいたくて、やってます。

–人に喜んでもらいたい。フルーツサンドもデザインもイベントも、その手段なんですかね?

西村:うん、そうですね。あとは、この数年は「新しい価値観を提供したい」っていう気持ちも強いかもしれないです。

–新しい価値観を。

西村:僕、「陽キャ」って言われることが多いんですけど、実はあまりコミュニケーションが得意じゃないんですよ(笑)。

–それは意外かもしれない(笑)。

西村:小さい頃から、言いたいことが言えずに、自分のなかでモヤモヤを溜めてしまうことが多かったんです。自分が心から好きだと思うことがあっても、周りの目を気にして言えなかったりとか。

–具体的には、どんなことを言えなかったんですか?

西村:たとえば、自分は小さいころからピンクが好きだったんですね。高校生の時も、ピンクの携帯を持ってたんですけど、まわりから「男がピンク?」みたいな目でみられたりとかして。

当時の自分はそれで尻込みしちゃって、「ピンクが好きだ!」って、自信を持って言えなかったんですよ。

 

いろんな価値観に触れると、生きやすくなる

–今の西村さんは、自分の好きなことを存分に伝えてる気がするんです。なにがきっかけで変わったんですか?

西村:自分のなかですごく大きかったのが、「6curryKITCHEN」との出会いでした。

–あぁ。カレーをきっかけに普段出会わないような人と出会える、会員制のコミュニティですよね。

西村:そうです、そうです。今は運営してる会社が変わって、東京の八重洲と静岡の三島に拠点があるんですけど、僕が初めて参加したのが5年前くらいで。当時は渋谷と恵比寿にお店があったんです。

その場で出会った人たちが、ほんとうに、自分の人生にとって大きな存在になったんですよ。

–どんな方たちだったんですか?

西村:いろんな価値観を持つ人が集まってたんですけど、みんな、誰かが言ったことを否定しないんですね。それどころか、すごく興味を持ってくれて。

たとえば自分が、「年齢や性別を問わず、美容とかファッションとか、楽しんでいいと思う!」って、思い切って話したら、「私もそう思ってたよ!」って言ってくれて。あれは嬉しかったですね。

–それまでは、誰にも話せなかったわけですもんね。

西村:はい。これまで抱え込んでた思いを、みんな肯定してくれたし、自分自身もいろんな価値観に触れる機会にもなって。なんというか、すごく生きやすくなったんです。

–自分の考えも受け止めてもらえて、誰かの考えも受け止められるような関係性があると生きやすくなる、というのは、すごくわかります。「自分の好きなことに正直でいていいんだな」と思えるようになる、というか。

西村:本当にそうなんですよね。だからこそ、もっと多くの人が、いろいろな価値観に触れる機会が増えれば、暮らしやすい世の中になると思うんです。

–うん、うん。そう思います。

西村:そんな「6curry」での経験もあって、「mirrors」っていうイベントを立ち上げたんです。「性別とか年齢を問わず、美容とかファッションって楽しんでいいんだよ!」っていうことを伝えるために。

たとえば、メイクをしたい男性もいれば、メイクをしたくない女性もいるし、ピンクを好きな男性もいますよね。価値観を誰かに押し付ける、みたいなのはしたくないけど、「こういう価値観もあるんだよ」って知って欲しくて。

「mirrors」の様子(画像提供:西村さん)

–素敵なイベントだなぁ。

西村:コロナの影響もあって、もう「mirrors」は開催してないんですけどね。最後に東京でリアルイベントをやったとき、北海道から参加してくれてた方もいたんです。

–え! イベントのために東京に?!

西村:そうみたいです。「どうして来てくれたの?」って聞いたら、「それまでずっとオンラインで参加していて、すごい勇気をもらってきたんです」って言ってくれて。

まさにその、「勇気を持ってもらう」っていうことが、自分がやりたかったことなんです。その方、この前もフルーツサンドのイベントをやったとき、食べに来てくれて。今は東京に出てきてお仕事してるらしいです。そういう話を聞けるのは嬉しいですね。

–すごくいい話だなぁ。「いろんな価値観に触れる機会をつくる」っていう思いは、イベント以外の仕事でも西村さんの根っこにあるんですか?

西村:そうかもしれないです。たとえばデザインの仕事にしても、その会社が取り組んでいることに共感してご一緒してるので。デザインを通じてその会社の価値観を届けるお手伝いをしてるっていう意味では、共通してるな、と思います。

 

フルーツサンドを通じて、多様な価値観に触れる機会を

–今回スマート履歴書「プロフ」をつくっていただきました。西村さんは履歴書とか、世の中にあるキャリアのレール、みたいなものについてなにか思うことはありますか?

西村:あー、なんだろうなぁ…。

たとえば僕が広告制作会社で働き続けてたとしたら、レールに自分をはめ込んで、「仕事で成果を出すために、自分のやりたいこともセーブする」って考えになっていたかもしれないと思います。

その環境ではその価値観が正しいと信じられているので、他の選択肢に気づけなかったかもしれない。

–そうか。居場所がひとつしかないと、そこでの価値観がすべてになってしまいがちですよね。

西村:はい。だから、フルーツサンド職人の活動でも、対面でのコミュニケーションを大事にしてるんです。

会話して、その人の価値観について聞いたり、「この人と話が合うかも知れないよ」ってつないだり。そういう、食べる以外の楽しさとか、幸せ、みたいなものも提供できたらいいなって。

–フルーツサンド職人の活動も、「いろんな価値観に触れる機会づくり」でもあるんですね。

西村:そうなんですよね。だからこそ、フルーツサンド職人の活動は長く続けていきたいなって思っています。

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まわり道だって、いつか1本の線になる。 元会社員の漫画家・うえはらけいたの“過去の夢を描き直す”生き方 https://mag.proff.io/interview/keitauehara/ Thu, 22 Jun 2023 21:00:57 +0000 https://mag.proff.io/?p=1319 家でずっと絵を描いていた幼少期

-うえはらさんが漫画家になろうと思ったのはいつだったんですか?

うえはら:子どもの頃からの夢だったんです。小1の時に、お母さんが『名探偵コナン』を買ってきて。コナン読んだことあります?

-はい、もちろん。

うえはら:コナンって面白いじゃないですか。あと、『鉄腕アトム』なんかも買ってきて。 それからはもう、漫画が大好きになって、模写ばっかりしてました。僕、身体がすごく弱くて、外で運動ができないタイプだったので、家でずっと絵を描いてたんですよ。


-それからずっと漫画家を目指して?

うえはら:いや、高校ぐらいで、なんか絵から離れちゃったんですよね。こじれちゃったというか…うまく言えないんですけど。

-そうかぁ。どうしてだったんですかね。

うえはら:なんでなんでしょうねぇ…。まぁ、高校くらいになると、自分より絵が上手い人がいるってだんだんわかってくるじゃないですか。で、「自分は続けてもしょうがない」みたいな感じになっちゃったのかもしれないですね。

CMでストーリーを摂取していた

-じゃあ、高校の時はぜんぜん絵を描いてなかったんですね。

うえはら:はい。もう、高校がね、暗黒時代すぎて。帰宅部だったし、何もしてなかったです。友達も全然いなかったですね。

授業中、ずっと寝てるんですよ。で、 学校終わってから家に帰って、もう1回寝るような生活。唯一やってたのが、テレビをずっと観ることで。

-テレビを。

うえはら:はい。僕、CMがめちゃくちゃ好きで。なぜか番組本編より好きだったんです(笑)。CMだけ録りためたビデオを自分でつくったり。

-ええ〜、それはガチだ!どんなCMが好きだったんですか?

うえはら:一番好きなCMが、ACの『黒い絵』っていう。

-あ〜、覚えてます!画用紙を黒く塗りつぶし続ける小学生の男の子と、それをとりまく大人たちを描いた、「子どもから想像力を奪わないでください」というメッセージがこめられた作品ですよね。

うえはら:そうです、そうです。ああいうストーリー性があるものが好きで。というかたぶん、CM自体というよりストーリーというものが好きだったのかな。

僕、当時は出無精だったから、あんまり映画を観にいく習慣もなかったんですね。その点、CMって短い尺でストーリーを摂取できる格好の媒体じゃないですか。多分それでCMを好きになったんでしょうね。

「一生この会社にいれるな」と思っていた

うえはら:大学は、近くて受かったから選んだんです。 僕が入った大学って、最初は全員同じ学部で、3年生の時にどの分野を選ぶかを決めるんですよ。

だから、人生の決断を先送りできたんです。大学に入るときは自分が将来なにをしたいかなんて、ぜんぜん決められなくて。まぁ、本当は絵を描きたいんだけど、無理だな、と思ってたので。

-大学に入る前に将来のことをイメージするの、なかなか難しいですよね。大学では日々を送っていたんですか?

うえはら:高校時代になにもしなかったことへの反省もあったので、学園祭の実行委員会に入ったんですよ。実行委員会って、意外と一年中やることがあって。学園祭の準備とか、 学外との交渉とか。

3年の時には一応委員長になったので、80人くらいの面倒をみる立場になって。会社の管理職みたいなことをやってました。

-Proffで書かれていた経歴によると、そんな大学生活を経て、博報堂に入るわけですね。

うえはら:はい。実行委員で企画やものづくりをやってたので、そういう仕事をしたいなと思って、就活はテレビ局とか新聞社とか広告の会社とかをみてました。それで、博報堂に運良く内定をいただけて。

-それで、博報堂でコピーライターに。すみません、コピーライターの仕事ってよくわかってないんですけど、どんなことをやるんですか?

うえはら:わからないですよね(笑)。僕、「コピーライター」っていう肩書きがよくないと思ってまして。

もう、ほぼアイデアマンなんですよ、やることが。もちろん、キャッチコピーとか、文章を書く仕事も 3割ぐらいはあるんですけど。CMの企画を考える仕事が半分ぐらいで、あとは新商品のアイデア考えるとか。

-なるほどなるほど、いろんな企画を考えるわけですね。やってみてどうでしたか?

うえはら:やりがいはめちゃくちゃありましたね。まぁ、最初の3年ぐらいはかなりしんどかったんですけど。土日出社もあるし、徹夜もするし。

でも、いる人がみんな面白いし、仕事のオーダーも大喜利みたいで、楽しかったんです。うん。当時はぜんぜん、「一生この会社にいれるな」と思ってましたね。

デザイナーになるために美大に編入

-だけど、博報堂は4年半でやめることになるわけですか。

うえはら:あ、そうですね。短いですね、今思えば(笑)。

-やめたのは何が理由で?

うえはら:やっぱり、絵を描くことへの未練がずっとあって。就活の時も一瞬、漫画家っていう選択肢が頭をよぎったんですけど。まぁ、具体的に努力を何もしてないから、そもそもなりたいなんて考える段階にないだろうと思って。

で、博報堂で働いてみたら、まわりにデザイナーがいっぱいいたんですよ。その人たちが作業する姿を見ていたので、「なるほど、デザイナーってこういう仕事なのか。頑張れば自分もやれる可能性はあるな」って、少しずつ実感を持ててきたんです。

-その時は漫画家じゃなくて、デザイナーになろうと思ってたんですね。

うえはら:そうですね。絵を描く仕事がしたかったんですけど、漫画家はまだリアリティが持てなくて。一方でデザインだったら、「頑張れば手が届くな」みたいな感じだったので、デザイナーになるために会社を辞めて美大に入ったんです。グラフィックデザイン科に3年次編入で。

で、卒業したらデザイナーになるつもりだったんですけど、大学生活の中で漫画家になりたいっていう気持ちが、どんどん強くなっていってしまって(笑)。

-へえ〜!グラフィックデザイン科だったのに!

うえはら:ねぇ(笑)。僕、3年から編入してるんですけど、4年生ってほんとに自由なんですよ。授業もそんなになくて、卒業制作だけ。

卒業制作は自由で、それぞれが本当につくりたいものをつくるんですけど、僕は「28年ぐらい先延ばしにしてきた漫画っていうものを、今描かないで、いつ描くんだ!」と思って、初めてちゃんと描いたんです。

その時のしっくり感が、まぁすごかったんですよね。

-漫画を描くことに対する、しっくり感。

うえはら:はい。もう、「これだったじゃん!なんでやらなかったの、今まで!」みたいな感覚を、すごく感じて。

まぁ、めちゃめちゃ手こずるところも多かったですけどね。ストーリーをつくったり、コマを割ったり、 吹き出しの位置を考えるみたいな作業は、ほぼ初めてだったので。「漫画家ってこんな難しいことやってるんだ…」っていう気づきはありましたけど。

でも、そういう作業もぜんぜん苦じゃなかったんです。あと、描きたいものがものすごいいっぱい浮かんできて。「この作品でこれ描きたい、それが終わったら次これ描きたい!」っていうアイデアが、ば〜っと出てきたんですよ。

-なんだか、それまで堰き止められてたものが、漫画っていうものと出会って溢れ出だしてきたみたいな。

うえはら:うん。そういう感じはありましたね。

漫画家として独立

-美大を卒業してから、しばらく広告会社でデザイナーをしながら漫画家としても活動したあと、2020年4月にマンガ家として独立したんですよね。二足の草鞋をはき続けるっていう選択肢もあったと思うんですが、どうして独立しようと?

うえはら:多くの人は、ある程度その道で生活できるようになってから会社を辞めるじゃないですか。

僕も一応、生活のために会社員になったんですけど、当時、30歳も過ぎていて、すごく焦ってたんですよ。少しでも早く、漫画に専念して本業にしなきゃいけないって。だから、見切り発車でやめました(笑)。

-見切り発車(笑)。

うえはら:あ、でも、漫画家としてやっていく覚悟を持つための転機になった仕事がひとつありましたね。ポルノグラフィティの展示イベントがあって、その告知ポスターに、バンドの歴史をまとめた漫画を描かせてもらったんです。

-おお〜、それはすごい!当時はまだ実績もなかったわけですよね。

うえはら:そうそう。だから、よくそんな無名の漫画家にやらせてくれたなって感じなんですけど。たまたま僕の漫画が採用されて。

それで、 10ページぐらいの漫画を描いて、それが展示会場に貼り出されて。 来たひとたちがずら〜っと、そのポスターの前に並んで、漫画読んでくれてるんですね。別に僕の漫画目当てじゃなくて、ポルノグラフィティが目当てなんですけど。

でも、その姿を見た時に、「あ、これは僕は漫画を描くべきだな」って思ったし、「ちゃんと漫画も仕事になるんだな」っていうのを実感として持てた。あの出来事は、自分の中で大きい転換点だったかなと思います。

すべてのことが伏線になる

うえはら:なんかこうやって人生を振り返ると、今までやってきたことが全部伏線だったんじゃないかと思うんですよ。

-伏線っていうのは?

うえはら:子どもの頃から絵を描いてたことも、CMで描かれるストーリーが好きだったのも、広告会社でストーリーづくりを勉強してたのも、全部漫画を描くためにやってたんじゃないのかって。だから会社員になったのも、今思えば必要な周り道だったと思うんです。

-あぁ、たしかになぁ。それまでの何気ないエピソードが、漫画家になったことで伏線として回収されていった感はありますね。

うえはら:そうそう。当時は自分でも伏線をはってる意識はなかったけど、あとになって伏線として回収できたっていうことが何度もあるんです。

最近知り合いの編集者の人に言われて、なるほど、と思ったのが、「漫画がうまくなってきたら、『これを伏線にしよう』と思って描かなくても、後になって伏線として応用できるようになるよ」と。

-伏線を意図してはるわけじゃないってことですか?

うえはら:そうみたいです。「よし、これは伏線だ!」って描かなくても、リアルな物語を描いていれば、自然と後になって伏線が回収できるものなんだよと。なぜかというと、人間の人生ってそういうものだから

-あぁ〜、なるほど。

うえはら:僕も高校時代に家にこもってCMみてたりとか、会社員になったりとか、ある意味キャリアをとっ散らかしたのが、結果的に伏線になったんです。最初から漫画の道に進んでたら、いま描いてるような会社員を主人公にした漫画を描くっていう発想にはなってなかったと思うので。

-むしろ回り道がないと、のちのち人生にひろがりがなくなってしまうこともありそうですね。ありきたりなストーリーの漫画みたいに。

うえはら:そうですね。そうかもしれません。

-漫画における伏線の話が、キャリアの話と通ずるとは(笑)。

ぐにゃぐにゃに歩んできても、線は繋がっている

-うえはらさんは「履歴書」や、世の中にある「キャリアのレール」みたいなものについて、どう思いますか?

うえはら:実際僕も最初の会社に入って、会社員3年目くらいまでは「レールの上を歩まねば」っていう発想だったんですよ。だから、そんな自分がなぜこんなぐにゃぐにゃの人生になったのか、不思議なんです(笑)。

でも、今ではぜんぜん寄り道していいと思ってます。そのレールって、勝手に自分で敷いてるだけだと思うし。

なんか言葉遊びになっちゃいますけど、僕は割と今でも、1本の線をたどってきてる感覚はあるんです。

-おお。というと?

うえはら:それが一直線のまっすぐな線じゃなくて、ぐにゃぐにゃしてるように見えるけど、 あとから引っ張り上げたら、1本の紐になるみたいな。そういう感覚なんです。

-あぁ〜!なるほど。ぐにゃぐにゃしてるけど線は繋がってるんだと。

うえはら:つながってますよね。キャリアに迷ってた時は、レールから外れる感じもあったから、「こっちに行って大丈夫かな?」みたいな不安がめちゃくちゃあったんですけど。結局繋がって1本になってるんです。

だから、今「こっちに行って大丈夫かな」って不安になってる人も、あんまり気にしなくていいんじゃない?って思います。ちゃんとつながってるから。

今歩んでるレールに少しでも違和感を感じたり、モヤっとする気持ちがあるんだったら、それをできるだけ無視しないのが大事なのかなと思いますね。

-ちょっと気になったんですけど、ぐにゃぐにゃに歩んできても、自然とあとから1本の線になるものなんですかね?それとも意識して1本の線にする作業が必要なのか…

うえはら:あ、それでいうと、うまい漫画家さんは自分がそれまでに描いた話を読み返すらしいんですよ。

そうすると、「自分でも忘れてたけど、ここに出てくるこのキャラクターはそろそろもう1回出した方がいいんじゃないか」みたいになことに気づくそうです。読み返すことで回収できる伏線を見つけるんですね。

-へぇ〜、なるほど!それはキャリアもそうかもしれないですね。これまでの人生を振り返ってみると、「そういえばこれ好きだったから、またやってみよう」とか「あの人と会ってみよう」とか、気づけることがある気がします。

うえはら:うん。そういうことってあると思うんですよね、漫画でも人生でも。

働く人を勇気づける漫画を描きたい

-今後やってみたいことはなにかありますか?

うえはら:会社員を経験してる漫画家って、増えてきてはいるんですけど、まだ漫画家全体的からしたら少ないんです。でも、読者のなかには結構な割合で、会社で働いてる方もいるはずで。

だから、経験者の目線で会社員を励ましたり、勇気づけたりできる漫画を描きたいっていう気持ちはずっとあります。

僕自身、20代の頃は日曜の夜が本当に嫌いだったんですよ。

-あー、いやですよね。「サザエさん症候群」なんて言葉もありますけど(笑)。

うえはら:そうそう。僕は「サザエさん症候群」の末期患者だったので(笑)。そのつらさを少しでも和らげられるような漫画とか、仕事に対して少しでも前向きになれる漫画を描けたら、目先の1つの目標は達成だなって思ってます。

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居場所が見つからず、苦しみ続けた人生。道を開いたのは“遊び”だった。プロップスタイリスト・菅野有希子の“遊びながら、いい波を待つ”生き方 https://mag.proff.io/interview/yukikosugano/ Tue, 30 May 2023 21:00:55 +0000 https://mag.proff.io/?p=1297 最初は趣味だった

菅野:わたし、家にいるのがすごい好きなんですよ。どこかにご飯食べに行くより、家を居心地よくしてそこにいるのが好き。仕事もそこから繋がっていますね。

-たしかに、菅野さんが手がけたスタイリングって、暮らしの楽しさが伝わってきます。じゃあ、もともと好きだったことを仕事にしていったんですか?

菅野:うーん、「仕事にしていった」っていう感じでもないんですよね…。最初は「面白いなぁ!」と思って、自分で小物を並べて撮った写真をSNSにあげてただけ。まさかそれが仕事になるなんて思ってなかったです。だから仕事を始めてから4、5年は、「こんなことでお金もらっていいの?」って感じで(笑)

-へえ〜!じゃあ最初はスタイリングは趣味で?

菅野:はい。私、28歳の時に一度結婚してるんです。今は離婚しましたけど、あの時が人生にとって良い機会になったなと思っていて。だけど、 その時あんまり仕事がうまくいってなかったんですね。

旦那さんからも「大変そうだから、1回やめてゆっくりしなよ」って言われて、まぁ、それもいいかもなと思って、会社を辞めて。それからしばらく仕事をしてなかったんです。専業主婦になって。

-はい。

菅野:それまでずっと実家で暮らしてたから、あんまり料理もしてこなかったんですけど、結婚して初めて自由に使えるキッチンができたから、料理をするようになったんですね。そしたら、思った以上に楽しかったんですよ。

それは料理自体が、っていうよりも、「今日の献立こうしよう」とか「クリスマスだから、これをつくってみよう」みたいに、季節とか行事によって食卓を考えるのがすごく楽しかったんです。

 

菅野さんが手がけたスタイリング。

 

突然の仕事の依頼も、「楽しそうだからやってみよう!」

菅野:だんだん、自分で作った料理をSNSにあげるようになったんです。そしたら、友達から反応がすごく大きくて。「せっかくだからブログにまとめたら?」って言われたから、軽い気持ちで始めてみたんですね。

そしたら突然、そのブログを見た方が「コラムを書いてみない?」と誘ってくださって。書き続けているうちに「写真の感じがすごくいいから、多分スタイリングの仕事もできると思う!」って。

-それまでは仕事でのスタイリングはしてなかったわけですよね。いきなり仕事って、こわくなかったですか?

菅野:今思えばそうなんですけど、当時は「よくわかんないけど、楽しそうだからやってみよう!」みたいな感じで。なにも知らなすぎるから逆に「はい!」って言えたのかもしれないです(笑)

それで、初めて仕事をしたんですけど、撮影のスケジュールとかが書いてある香盤表に、「スタイリスト 菅野有希子」って書いてあって。あ、なるほど、これスタイリストっていうんだ!って、そこで初めて知ったんです。それがプロップスタイリストになったきっかけですね。

会社に馴染めなかった

-専業主婦の前には、会社員だった時期もあったとか。

菅野:そうですね。新卒でシンクタンクに入って、経営コンサルタントをしてました。

わたし、親や親戚にもあんまり会社員がいなくて、まわりに自分で商売してる人が多かったんです。なので自分で商売をやってる方に関わる仕事がいいなっていう、ふんわりした動機で入ったんですけど。入ってみたら、全然ついてけなかったんです。ほんとしんどくて。

-どんなことがしんどかったんですか?

菅野:うーん、どうやって話せばいいかむずかしいですけど…うん、まぁ、そもそも出社がむずかしいんです。一応会社は行きますよ?行きますけど、頑張って行ってるから、具合悪くなっちゃうみたいな感じ。

今みたいにフリーランスだったら自分でスケジュールを組めるけど、会社だとある程度決められたことをやらなきゃいけないじゃないですか。そういう環境がすごくストレスだったんだろうなぁと。で、2年ぐらいでやめて。

菅野:その後はいろいろ。派遣をやったり、アルバイトしたり、知り合いの会社に雇ってもらったり。20代は本当、どこで働いても「勤める」ことが全然うまくいかなくって、職務経歴書を書こうと思っても、経歴がめちゃくちゃになっちゃうんです。

-20代ずっとですか…いまは笑顔で話してくださってますけど、かなりつらかったんじゃ?

菅野:そうですね。あの時は、とにかく自分に自信がなかったです。すごい頑張るんだけど、なにをしてもうまくいかなかったから、「普通の人は当たり前にできることが、わたしはできない」って思っちゃって。社会との接点もない感じがして、わかりやすい肩書きを探してましたね。

 

学校に行けなかった

菅野:どうしようかな。これ、しゃべろうか迷うんですけど…わたし学校も行ってない時期があって。

-そうだったんですか…言える範囲で、聞いてもいいですか?

菅野:はい。中1までは頑張って通ってたんですけど、中2のはじめごろから行けなくなって、いわゆるひきこもりになったんです。一応毎朝起きて、着替えるけど、どうしても玄関から出れなくて。2時間ぐらいずーっと、行かなきゃと思うけど行けない、みたいな状態で立ちすくんでたりとか。

-それはつらいですね…

菅野:特にこれといった理由はなくて、なんとなく行けなくなっちゃったんですけどね。転校したり、いろいろトライしたんですけど、「学校」ってもの自体が合わなくって。月に何回かは外に出るけど、 ほとんど家にこもってる、みたいな状態でした。

菅野:なんとか高校も行ってたんですけど、2年に上がるときに先生から「このままだと留年します」って言われて。これだけ頑張っても行けないのに、留年してまで学校に行くかな?って考えたら、絶対行かないなって思って。

それでドロップアウトして、 フリースクールに通うようになったら、ちょっと元気になってきたんですね。それで、そのあと大学に入ったら、これがすごい楽しかったんですよ!

-へぇ〜!大学はなにがちがったんでしょう?

菅野:自分がやりたいことをやれたのがよかったんです。大学って、好きな授業を受けられるじゃないですか。だから論文の課題も、3万字でいいのに10万字も書いちゃったりとかして(笑)

-10万字はすごい(笑)!好きなことをやるようになったら、エネルギーが湧いてきたんですね。

菅野:そうそう。だからやっぱり、決められたスケジュールとか、決められたタスクがあると、すごい苦しくなっちゃうタイプなんだろうなって、今になって思うんですよ。会社員のときも、それが窮屈だったのかなって。

 

世の中の選択肢じゃなく、自分のなかにあるものに目を向ける

菅野:そんな10代、20代を過ごしたから、「わたし、みんなができることが何にもできないなぁ」って、自分に自信がぜんぜんなかったんですよね。

ずっと居場所がない感じがあって、「どこかないかどこかないか…」と思って、必死に探してたんですよ。この学校がダメだったから違う学校に行ってみよう、この仕事がダメだったから違う仕事をしてみようって、たくさんトライはしたんですけどね。だから、ぼーっとしてたわけではないけど、なかなか居場所が見つからないんです。

菅野:だから、30歳を超えてからの方が、ずっと人生楽しいです!やっと自分の居場所が見つかった感じがしていて。

-10代20代と、30歳をこえてからで、なにが変わったんですか?

菅野:なんか、10代20代のときはお店の棚から商品を選ぶみたいに選択肢を探してたんですよね。コーヒーにしようか、ビールにしようか…みたいなのと同じように、「どの仕事をしようか」「どの会社に入ろうか」って。

-うんうん。自分の外側に選択肢を探してた。

菅野:でも、今の仕事はそういう、自分の外にある選択肢から選んだんじゃなくて、自分の中にあるものをちょっとずつこねこねしてたら、機会が向こうからやってきた感じなんです。

-こねこね、ですか?

菅野:そう。どろんこ遊びみたいに、こねてた感じ。仕事とか居場所って、世の中にある選択肢から探すのが当たり前だと思っちゃいそうになりますけど、わたしはむしろ自分のなかにあるものからかたちづくられていった気がするんですよね。

どろんこ遊びをする

菅野:でもね、こういう話をすると「好きを仕事にする話ですね」って思われそうですけど、ちょっと違うんです。なんか、「好きを仕事にする」っていうと、すごく力が入ってる気がするじゃないですか。

-頑張って自己分析して、好きなことを見つけて、仕事をゲットしよう!みたいな。

菅野:はい。でもわたしはそんな力を入れてたわけじゃなくて、砂場で楽しくどろんこ遊びしてたら、「楽しそうだね!」って言って、ひとや機会が集まってきたっていう感覚なんですよ。

-楽しく遊んでたら、結果的に好きなことが仕事になったと?

菅野:そうです、そうです。もっというと、「好きなこと」っていうよりも「得意なこと」っていう感覚かな。自分にとって力まなくてもできることをやっていて。そうすると、そんなに頑張ってるつもりはないんだけど自然と成長して、誰かから褒められるようになる、みたいな。

-なるほどなぁ。誰から頼まれなくてもやってしまうようなことが仕事になると、すごく自然体で働けそうですね。

菅野:もちろん、スタイリングのことはすっごく勉強しますよ。だけど、死に物狂いで勉強したことよりも、 生活のなかで自然にインプットしたことが仕事の結果に出ると思うんですよね。

-そうすると、日々楽しく生活することが、いい仕事にもつながっていきそうですね。

菅野:本当にそうですね。だから、わたしが楽しく遊んでるからこそ、つくったものを「すごい良かった!」って喜んでもらえるんだと思うんです。

波をよびこむ生き方

-今後こんなことやってみたい、みたいなことはありますか?

菅野:う〜ん…たまに聞かれんですけど、決まってないんです。たとえば湘南に住んでみるのもいいかな〜って思うんですけど、いい波が来なかったら行かないと思います。波っていうのはたとえですけど。

-いい波?

菅野:はい。わたし、ずっといい波を待ってるんです。目標を立てて、そこに向かって一生懸命努力して、到達する…みたいなタイプの人がいるじゃないですか。そういう人の方がちゃんとして見えがちだと思うんですけど、それが全然合ってなくて。

それよりもサーフィンみたいに、波を見ながら「いまは凪いでるからまだだな」って待ってて、いい波が来たら「きた!」って、波にのる。また凪になったらたらちょっと待って…みたいな感じの生き方のほうが合ってるなんだ思います。しかも波に乗るんだけど、どこにたどり着くかわわかってない(笑)

-菅野さんがスタイリングの仕事をはじめてやったときも、まさかその後プロップスタイリストとして活動するなんて思ってなかったわけですもんね。

菅野:そうですね。だからさっき言ったみたいに、どろんこ遊びをしてたらいい波がきたから、のってみた。のってみたら思いも寄らないところにたどり着いた…っていうかんじなんです。

あ、でも、「波を呼び込む」ことはしてたかもしれない。自分がこんなことしてますよ!っていうことをSNSで発信したり、人に話したりして。

-楽しそうに発信してると、思わぬ縁に繋がったりしますよね。

菅野:そうそう。わたしも楽しく遊んでる様子をみんなに見せてたら、チャンスがきたんですよ。だから、自分がやってることを発信することは、いい波を呼び込むことになるんでしょうね。SNSがある時代に生まれてよかったなぁって思います。

何歳になっても、自分の気持ちに正直でいる

菅野:私いま40歳なんですけど、最近まで歳をとることにネガティブなイメージがあったんです。

-どんなイメージですか?

菅野:なんだろう、いろいろなことが終わっていっちゃうような。それは女性としてっていうこともあるし、仕事でも、例えば「フリーランス40歳定年説」じゃないけど、40歳を超えるとあんまり仕事こないみたいな話も聞いたりして。

-ああ〜、それは聞きますね。

菅野:でも、いろんな人の話を聞くなかで、「まぁあんまり年齢は関係ないな」って思えるようになりました。気持ちが若かったら何歳になってもチャレンジできるので。

だから、「もう40だから」みたいな言い訳をやめて、やってみたかったことを全部すぐにやろう!と思って、行きたかったライブに行ったり、買いたかったものを買ったり。見た目も、これまでとちがうふうにしたいと思って、金髪にしたんです(笑)

-なるほど〜、それで金髪に!

菅野:ふふふ!なんか、欲があるとうまくいかないなって思うんですよね。お金とか時間とか気持ちに余裕がないと、欲が出て焦って、変な人に騙されたり、嫌な仕事を機会を掴んじゃったりするじゃないですか。

だから、あんまり欲を持たないで、なるべくゆとりがある状態で、「これをやったらたぶん楽しいな」とか「これが自分に合ってるな」みたいなことがあったらやってみる。そんなふうに、自分の気持ちに正直でいたいなって、最近は思ってます。

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キャリアを立ち止まると、人はカラフルになる。 キャリアブレイク研究所・北野貴大の“人生の小休止をおもしろがる”生き方 https://mag.proff.io/interview/takahirokitano/ Thu, 02 Mar 2023 21:00:22 +0000 https://mag.proff.io/?p=1267 無職や休職は「人生に箔がつく」?

-キャリアブレイク研究所って、どんなことをしてるんですか?

北野:僕らは「文化輸入事業」だと思ってます。

-文化輸入?

北野:現代って、これからどうやって生きていくのか、答えがない時代になっていますよね。だからこそ、欧州にある「キャリアブレイク」の文化がすごく大事なんじゃないのかなって。

-なるほど。「キャリアブレイク」って、どういう文化なんでしょう?

北野:一時的な離職や休職を肯定的に捉える文化です。日本では離職や休職って「経歴に傷がつく」って言われるじゃないですか。つまり「ブランク(空白)」ととらえられてる。

-「履歴書の空白」っていう言葉もありますしね。

北野:はい。一方欧州では、「ブランク(空白)」じゃなくて「ブレイク(小休止)」ってとらえられてるんですよ。

一時的に休んで、旅をしたり子育てをしたり、心身の回復をしたりする文化があって。だから、離職や休職によって「人生に箔がつく」人もいると言われてるんです。

-「経歴に傷がつく」と「人生に箔がつく」。ほとんど真逆のとらえかたですね。

北野:そうなんです。日本では、高度経済成長期から、キャリアの階段をストレートにのぼることが良いことだとされてきましたよね。反対に、立ち止まったり、横道にそれることは良くないことだと。

-僕も無職の経験があるので、よくわかります。その階段を踏み外した自分は落伍者だ、っていう気持ちになっていました。

北野:そうやって自信を無くす方がたくさんいるんですよね。だから僕は、キャリアブレイクを選択肢のひとつとして提示したいんです。

 

大阪で開催された「無職酒場」の様子

 

キャリアブレイクをめぐる循環をつくる

-具体的にはどんなことを?

北野:無職・休職中の人たちに「月刊無職」っていう情報誌を届けたり、「むしょく大学」っていう活動の場をつくったりしてます。あとは、法政大学大学院の石山恒貴教授や片岡亜紀子先生にアドバイスをいただきながら、キャリアブレイクの価値について整理しています。

そういう取り組みをしてるうちに、居酒屋とか旅行代理店が、「面白いからコラボしよう」って言ってくれるようになったんですよ。それで、旅の企画をつくったり、シェアハウスのコンセプトを考える活動をしたりとか。

-へえ!どんどん取り組みの輪がひろがっているんですね。

北野:ゆくゆくは社会的なインパクトにもつなげていきたいですね。国とか会社が、人生の転機を踏まえた制度や政策をつくるときに、お手伝いができたらいいなと。そうすると、当事者がより良いキャリアブレイクの期間を持てる気がして。

-たしかに。

北野:そんなふうに、当事者、支援する人、企業や行政…っていうふうに、キャリアブレイクをめぐるって活動がぐるぐる循環する。そんな動きをつくろうとしてます。

キャリアブレイク研究所は、さまざまなステークホルダーが関わり合う循環をつくろうとしている。

 

「教育してあげないと」は、疑うことと同じ

北野:無職になると、疑われるんですよね。「大丈夫?」「なにか仕事紹介しようか?」って。

相手にとっては優しさから出た言葉だけど、当事者は自分の人生に疑いを向けられた気持ちになるんです。

-ああ〜。

北野: 自分の人生を疑われることって、 なんかじわ〜っと、その人の可能性を閉ざしていく感じがありません?

-そうですね。「自分はだめなんだなあ」って思ってしまったり。

北野:そうなんですよね。一方で、「疑う」の逆って、「信じる」じゃないですか。僕、「信じる」ってすごいパワーがあるなと思っていて。

僕ら、当事者の方に特別なサービスは提供してないんです。たとえば復職のための教育プログラムとかはやってなくて。

-最近だと「リスキリング」って言葉が注目されていますよね。復職のためのスキル向上の機会をつくったりはしていないんですか?

北野:基本的には、していないですね。「教育してあげないと」みたいなスタンスって、「疑う」と一緒だと思うんですよ。

-教育を提供することが、疑うことにつながる?

北野:「学びなおして、このスキルを身につけたら?」なんていわれたら、「自分はなにか足りてない存在なんだな」って思ってしまいません?

-ああ、たしかに。

北野:だけど、その人はもうじゅうぶん足りてるから。僕らができるのは、「もう足りてるんだよ」って、その人を信じることです。

-誰かから信じてもらえる経験が、その人にとって大きな意味を持つんですね。

北野: そう思いますね。でも、運営している僕らが信じてまわってるというよりは、触れ合った人が信じてあげればいいと思うんです。

信じてもらえた人が別の誰かを信じて、その人がまた別の誰かを信じて…僕らの関係ないところで、信じ合う関係が勝手にできていくので。

-活動を通して実際に変わった方もいますか?

北野:はい。言葉ってすごいなぁって、つくづく思いますよね。別に教育サービスを受けたわけじゃなく、ただ「キャリアブレイク」って言葉を知って、誰かに信じてもらえただけで、「救われました」とか、「グレーだった世界に色がつきました」って言ってくれる方がいるんですよ。

そうだよ、君たちはそのままで素晴らしいんだよって、心から思いますね。

「月刊無職」は、キャリアブレイク中の当事者や経験者たち自身が記事を執筆。購入者がコンビニ印刷して読むかたちをとっているのも、「当事者には他人と比較しやすいネット環境から離れたい人もいる」という配慮から。

無職になったら、どんどんユニークになっていった

-以前北野さんは「キャリアブレイク中の人って、めっちゃおもしろいんです」って言ってましたよね。

北野:そうそう、おもしろいんですよね〜。キャリアブレイクをひろめる活動を始めたきっかけも、社会福祉みたいな活動をやりたかったわけじゃなくて、単純におもしろいなと思ったからなんです。

-人助けをしたいから、というわけじゃなかったと?

北野:はい。誰かを助けたいとかじゃなくて、「ちょっと待って、キャリアブレイクっておもしろいじゃん!みんなみてよ〜!」みたいな(笑)。

-キャリアブレイクがおもしろいと思うようになったのは、いつのことだったんですか?

北野:実は2年前、僕のパートナーが心のバランスを崩したんです。彼女は商社に勤めていたんですけど、体育会系な環境で、キャリアウーマンみたいな働き方で。だんだん、なんだか白黒になっていく感じがして。

-白黒に?

北野:そうです。彼女らしさが失われていってるような気がしたんですよね。

その後、心身の療養のために離職したんですけど、しばらくしてちょっと表情がよくなったので、復職するのかな、と思ったんですね。そしたら、「しばらく無職でいるわ」と。僕は「おお!?いいけど…」みたいな。

-北野さんにとっても意外だったんですか。

北野:そうですね〜。そのときの僕にはない発想だったので、とまどいましたよね。 だから、なんでその結論に至ったのかを聞いてみたんです。

パートナーはイギリスに住んでた経験があるんですけど、あっちでは休学や無職、休職期間をとる文化が当たり前にあったみたいで。「心配する気持ちもわかるけど、私は大丈夫だから」と。

「じゃあ、僕にどうして欲しい?」って聞いたら、「放っておいて欲しい」って(笑)。

-なにかサポートして!じゃなかったんだ。

北野:僕も、「あ、そっか」みたいな。最初は、「ケアしなきゃ!」なんて考えてたんですけど、別に放っておいたらいいんだね、と。ちょっと意外な気持ちで。

-はい。

北野:で、本当に放っておいたら、パートナーがメキメキとユニークになっていくんですよ!「実はこんなことやりたかった」とか、「実はこんなこと考えてた」っていう「実は」の話が、どんどん出てきて。

-へー!

北野:ああ、なるほど、おもしろいなぁと思って。休職や無職の期間があると、こんなに人がユニークになることがあるんだ、って。

そのときから、このキャリアブレイクっていう文化を広めたら、世の中を少しカラフルにできるかもしれないぞ!って思うようになったんですよね。

キャリアブレイク研究所が整理した、キャリアブレイク中の5段階。かつての環境から解放されたあと、虚無感を感じる時期を経て、「実は◯◯がしたかった」と自分の本音に気づく時期がある。その後、理想と現実に折り合いをつけ、社会と接続していく…という段階を、多くの人が辿るのだとか。

周りの人に「カラフル」でいてほしい

-世の中をカラフルにできるかもしれない、とは?

北野:僕は世界を、自分が住み心地が良くて楽しい、カラフルな場所にしたいんですよね。

-北野さんがいう「カラフル」って、どういう意味なんですか?

北野:僕、大学は建築専攻で、「混住」を研究してたんですよ。「混住」って、いろんな人種とか性別とか年齢の人が混ざり合って住むことなんですけど。

-混住。

北野:たとえばアフリカって街が整理されてなくて、いろんな人がごちゃっと住んでるんですね。あとはアジアの途上国もそう。あの、いろんな人が混ざり合ってる感じが、僕はすごく好きで。

一方欧米では、都市計画によってまちを整理してきた歴史があります。住むゾーンと商業ゾーンをきっちり分けて、若者はこっち、おじいちゃんおばあちゃんはこっち!みたいなふうに、住む場所も分けていった。 そのせいで、街がおもしろくなくなっていった気が、僕はしていて。

-日本の都市も、都市開発によって整理が進んでいますよね。

北野:そうなんですよ。商業施設も、ユニークなお店から潰れていくんですよね。で、大手ファストファッションのチェーンがどんどん増えていく。

あと、人もそう。大学ですごい多様な研究をしていた人たちが、就活になると全員同じ志望動機を言い出す、みたいなことってあるじゃないですか。

-あぁ、わかるなあ。

北野:そういう光景を目の当たりにすると、僕の大好きだったカラフルな世界が 、どんどん白黒になっていく感じがするんです。それがもどかしくて。

ただ、白黒になるのもわかるんですよ。だって、ファストファッションの方が安いし、使い勝手もいいし。建築も、ハウスメーカーの家は便利だし。女性専用車両をつくるみたいに、トラブルを避けるために街を整理することも必要だと思います。

でも、それによってあのおもしろい、カラフルさがなくなってしまうのはなんとかならないかな、って思うんですよ。

-最近だと「多様性」って言葉をよくみかけますけど、「カラフル」はちょっと意味合いがちがう感じがしますね。

北野:そうですね。多様性を尊重するのも大事なことだと思います。でも、僕は「多様性を尊重しなきゃ」みたいな義務感じゃなくて、「おもしろい」でもっと乗り越えられるものがあるんじゃないのか、と思っていて。

誰かが秩序をつくって、多様性が尊重される環境をつくるのも必要。だけど、アフリカやアジアの街みたいに、いろんな人が混ざり合ってカオスだけど、なんだかおもしろい。そんな環境もあっていいんじゃないかなって。

-「月刊無職」も「無職酒場」も「むしょく大学」も、みなさん楽しそうですもんね。

北野:本当にそうで。実はキャリアブレイクの活動は、自分のためでもあるんです。身のまわりの人がカラフルでいてくれたら、僕の人生が楽しくなるんですよね(笑)。

 

履歴書は“むずかしおもしろい”

-今回プロフをつくっていただきましたが、履歴書について、思うことはありますか?

北野: 僕、髪の毛を伸ばすの好きなんです。ほら、この辺とかって見えます?(zoom上で、毛先を指さす)

-はい。毛先のほう。

北野:四年前くらいから髪を伸ばしてるので、この辺の髪の毛って、僕と 四年くらいの付き合いなんですよ。だから、前職でルクアっていう商業施設に配属されたばっかりの僕のことを知ってるんです、こいつは。

-はははは!年輪じゃないけど、髪の毛が時を刻んでるわけですね。

北野:そうそう。だからこいつに「今も頑張ってるよ〜」って話しかけたりしてて。 でもこの辺(生え際の方を指さす)は新米なんで、まだ僕が起業したことしか知らないわけです。

-うんうん。

北野:いまって、自己紹介イコール会社とか学校を伝えること、みたいになってるじゃないですか。でも、僕の髪の毛みたいに、経歴じゃないものがその人の人となりを伝えるよねって思うんです。

-あ〜、たしかに。

北野:自己紹介をイノベーションすることって、とっても“むずかしおもしろい”んじゃないかと思ってます。好きな名言を伝えてもいいし、最近はまっていることでもいいし、髪の毛だっていいわけで。

-自己紹介のイノベーションかぁ。おもしろいですね。

北野:キャリアブレイクの期間って、自分なりの自己紹介が生まれてくるんですよ。年齢を言ってみたけど、ちょっとちがうなとか、好きな本を言ったらしっくりくるなとか。いろんな表現を試していくなかで、好きな自己紹介が生まれてくるんです。

-誰かの自己紹介が変わっていく過程を見るのも楽しそうですね「前はこうだったのに、いまは違う自己紹介してるな〜」とか。

北野:そうそう!だから、僕はいつもみなさんの自己紹介を聞くのがおもしろいんですよね。

※記事中に使用した画像は、北野さんに提供いただきました。

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“寂しがりやのひとり好き”だから、できることがある。 デザイナー大家・戸田江美の「“関わりしろのある暮らし”をつくる」生き方 https://mag.proff.io/interview/emitoda/ Sun, 27 Nov 2022 21:00:54 +0000 https://mag.proff.io/?p=1238 築40年の“おっちゃん物件”

-トダビューハイツ、“築40年のおっちゃん物件”っていううたい文句がおもしろいですね。

戸田:ありがとうございます。なんか、おっちゃんに見えるんですよね(笑)。鉄筋コンクリートも無骨な感じじゃないですか。

-ちょっと不器用そうなところもあり。

戸田:そうそう(笑)。エレベーターもないですしね。

-さっきトダビューハイツの前で、住人のご夫婦と立ち話してましたよね。なんだか、大家さんと住人っていうより、親戚同士みたいな関係だなぁと感じました。

戸田:そうですねぇ。“顔が見える関係”でいたいなぁと思っているので。

-“顔が見える関係”を象徴するエピソードってありますか?

戸田:なんだろうな…ちょっと日記を見てもいいですか? わたし、「トダビュー日記」をつけてて。ここで面白いことがあったときに。

トダビューハイツの前で撮影をしていると、たまたま帰宅した住人さん夫婦と遭遇。「あら、モデルやってるの!?撮影料ちゃんともらいなさいね!」と奥さん。なんでも、トダビューハイツができた44年前から住んでいる「レジェンド住人」なんだとか。

-それはいつか世に出してほしい(笑)。

戸田:ははは! いいかもしれない(笑)。えっと、さいきんのことでいうと、ちっちゃい子ども連れの家族が引っ越してきたんですね。ある日、ピンポンってチャイムを鳴らされて、出てみるとトダビューハイツに住んでいる女性だったみたいで。

何の用事かちょっとドキッとしたけど、「ミスドでドーナッツ買ってきたからあげるよ! これと焼酎を飲むとおいしいの!」って言われたらしいんです(笑)。

-ミスドと焼酎! 合うんですかね?(笑)。

戸田:どうなんでしょうね。その女性、お酒好きなんですよ(笑)。でも、いつも気にかけてくれてるらしくて、子どもが廊下にバーって出てくと、「危ないから気をつけてね!」って声をかけてくれたり。そういう関係がトダビューハイツにはありますね。

-すごくいい話ですね。おっちゃん物件、なんだか好きになっちゃうなぁ。

 

大家業とデザイナー業をおこなう「デザイナー大家」

-大家業って、やったことない人からするとイメージがつかないと思うんです。普段どういうことをしてるんですか?

戸田:事務的なことで言うと、管理会社がやってるような仕事です。家賃が入ってるかチェックして、掃除して、建物で壊れてるところがあったら工事を手配して。あとは内見の立会いをして、興味持ってくださった人には街歩きもします。あとは遊びですね。住人とご飯食べ行く、みたいな。

-住人さんとご飯を?

戸田:はい。住んでる人限定でご飯会をしたりしてます。あとは広報もやらなきゃなんですけど、さいきんサイトを更新できてないですね(笑)。

トダビューハイツのページは、イラストも含めて戸田さん作。

-でもサイト、あたたかみがあってすごく素敵です。戸田さんは「デザイナー大家」だから、ご自分でデザインも?

戸田:はい。イラストも描いてますし、写真も撮ってます。

-すごい! デザイナーとしてはフリーランスでも活動しているんですか?

戸田:そうですね。ウェブデザインがメインで、裏のプログラムを組むところもやってます。あとイラストとキャラクターデザイン、たまに 写真も撮ってますね。

 

大家業を継ぐも、プレッシャーで胃が痛くなる

-大家の前はweb系の会社に勤めてたそうですが、なにがきっかけで大家に?

戸田:トダビューハイツって、亡くなったおじいちゃんが1978年に建てて、おばあちゃんがあとを継いで大家をやってたんです。

わたし、大学生のころに母を亡くしてから、おばあちゃんと2人暮らしをしてたんですけど、web系の会社に就職したのを期に、横浜で一人暮らしを始めたんですね。

戸田:ちょうどその頃、トダビューハイツの周囲にマンションが増えたこともあって、空き室が増えてきて。他にも色々トラブルがあって、そのストレスもあってか、おばあちゃんが具合をわるくしちゃったんです。

-大家さんにとって、空き室ができることって精神的につらいんですか。

戸田:それはもう! わたしも大家を継いだあと、ずっとプレッシャーでお腹が痛くなるような日々でしたから。

それで、「おばあちゃんのそばにいたい」と思ったので、会社を新卒1年で辞めることにしたんです。転職するか、フリーランスになるか悩んでたんですけど、ちょうどその頃、青木純さんと出会って。

-青木さんって、「青豆ハウス」や「高円寺アパートメント」のような共同住宅を、住人と共に運営されている方ですよね。

戸田:はい。「大家の学校」も主宰されていて。その青木さんに話を聞いたら、わたしが会社でやってたデザイナーの仕事も、けっこう大家の仕事とかぶるって気づいたんです。

物件サイトのデザインもできるし、文章もちょっと書けるし。だから、やってみようかな、と思ったのが大家になったきっかけですね。デザイナーの仕事も、フリーランスとして在宅でやるなら大家業と兼業できると思ったので。

トダビューハイツのお部屋。すべての部屋で多少、広さや使用木材が異なるそう。窓からスカイツリーと銭湯が見える部屋も。(画像:戸田さん提供)

-なるほど。で、やってみたら「大家もいけるぞ!」みたいな。

戸田:いやぁ〜、意気揚々と「すぐ満室いけるだろ!」って思ってたんですけどね…じっさいは手応えがなくて、「これは駄目だ…」って、すごく落ち込んでた時期が1年くらいありました

-思ったようにうまくはいかなかったと。その頃は、空室は何室くらいだったんですか?

戸田:12室のうち 3室空いてました。それまでだったら、それくらいの空室は一年未満で埋まってたのが、1年以上たっても埋まらなかったんですよ。

いろんな不動産雑誌や本を読んで、あともう1,2部屋空室が増えた場合を計算しました。それで、「あぁ、このままの流れはよくないぞ…」って。

-そのときはどんな心境だったんですか?

戸田:10ヶ月くらい、ずっと胃が痛かったです。おばあちゃんは、「継ぐ」って言ったら喜んでくれたけど、そんなに成果も出せてないわけじゃないですか。やっぱり管理会社に任せることも考えましたけど、今まで任せてきたのに空室は埋まっていないわけで…。

「この衰退してゆく物件を見届けることになるのか、わたしは…」って、かなり落ち込んでたんです。

物件の良さを、編集者が気づかせてくれた

-おじいちゃんとおばあちゃんから引き継いだ大事な物件を、自分の代でつぶしてしまうのはつらいですよね…。そこからうまくいきはじめたのは、なにかきっかけが?

戸田:わたし、トダビューハイツの本当の良さを無視してたんですよね。それを、周りの人が気づかせてくれたんです。

-トダビューハイツの本当の良さ?

戸田:それまでは、「かわいいレトロ物件です!」って打ち出してたんですね。ふすまも可愛く張り替えて、タイル貼りのお風呂はマイナスだと思ってあまり見せないようにして。でも、ぜんぜん入居が決まらないわけです。

当時貼り替えたというふすま。たしかにかわいい。

戸田:でもあるとき、webメディアの『物件ファン』さんとか、いくつかのメディアの編集者の方が取材に来てくれて。「トダビューハイツの良さは、かわいさじゃない!」って言われたんですよ。

-『物件ファン』さんの記事って、「25才大家女子『わたしブレてます(笑)』」ですよね。読ませていただきました。

戸田:そうですそうです(笑)。「ダメな大家がいるぞ!」みたいに、よわさも含めて取り上げてくれたんですけど(笑)。

そんなふうに取材を受ける中で、とあるメディアの編集者の方が言ってたのは、「これは『神田川』の世界観なんだよ」って。

-『神田川』って、南こうせつの歌ですか? 「あなたはもう忘れたかしら〜♪」の。

戸田:はい。あの世界観。「暮れなずむまちのこの1室で、上京してきた若いカップルが小さいこたつを出して鍋をつついてる…そんな光景が見えるんだよ!」って(笑)。

-あ〜、たしかに! この部屋にいるとその光景、見えます!

戸田:でしょう?(笑)。トダビューハイツの良さは、この懐かしい感じと、わたしやおばあちゃん、あとは住人さんの顔が見えるところ。レトロ可愛さじゃなかったんですよね。

「だからタイル貼りの風呂こそがいいんだ!」って言われて、「なるほど!」って気づいたんです。

入居が決まり、涙

-それで、打ち出し方を変えたんですね。

戸田:はい。タイル貼りのお風呂もあえて見せるようにして、エレベーターがないことも、むしろ不器用さとしてポジティブに伝えるようにしました。そしたら、「懐かしい感じがいい!」って、入居してくれた人があらわれたんです。

-おぉ、念願の! 入居が決まったときのことって覚えてますか?

戸田:覚えてます。いや〜、ひとりで泣きました…。最初に入ってくれた方は、「正直、洗濯機が外置きなのはちょっと…と思ったけど、それより戸田さんの顔が見えるのがよくて。この物件以外見てないので、申し込みます」って、連絡をくださって。

-ここ以外見てなかったんだ!

戸田:そうなんですよ。グッときちゃいますよね…あんなに埋まらなかった物件なのに。

-そのときの涙は、どういう涙なんですかね。安堵なのか、喜びなのか…

戸田:あ〜。多分、プロポーズされた時の涙と似てる気がします。「いいところを知ってもらって、選んでもらえた!」っていう。

-あぁ、そうか。「家賃入る、やった!」じゃないんですね。

戸田:それはぜんぜん思わなかったですね。それより、いい人が入ってくれたのが嬉しかったです。

わたし、それ以来ずっと、入居してくれたみなさんの入居日をカレンダーにいれて、記念日みたいに毎年通知がくるようにしてるんですよ(笑)。

-ええ!? それはなにかお祝いをするんですか?

戸田:いやいや! みなさんからしたら契約の更新がくる日で、お祝いではないと思うので、パーティとかはしてないですけど(笑)。一人で毎年、「あ〜、今日はあの人が入った日なんだ」って、噛みしめてます。

-なんだかいいなぁ。

戸田:やっぱり、住んでくださる方がいるのは嬉しいですからね。

わたし、陽が暮れる頃にトダビューハイツの外から窓を見るのが好きなんです。それで、部屋に電気がついてるのが見えると、わ〜って嬉しい気持ちになります。

-空室があると、電気が見えないから。

戸田:そうです。あの部屋にあの人が住んでるんだなぁって。それは、大家業を継いでからの苦労があったからこそ、感じることなんだと思いますね。

大家とは、“関わりしろ”をつくる仕事

-戸田さんが考える「大家」ってどんな存在なんですか?

戸田:なんでしょうね。近すぎず遠すぎず、住まいの近くにいる人…かな。大家って、もともとそういう存在だったと思うんですよ。

わたし落語が好きなんですけど、落語だと「大家といえば親も同然、店子(たなこ)といえば子も同然」って決まり文句があるんです。つまり、困ったことがあれば助けてくれる存在が大家で。

-なるほど。現代だと、困ったときに助けてくれる存在が近所にいない人は多いですよね。

戸田:そうなんですよね。わたしももともとは、この辺の地域のことを「人の距離感が近くていやだなぁ」って思うときもあったんです。

だけど、会社に入ってすぐに横浜で一人暮らしをしたとき、ぜんぜん人の顔が見えなかったんですね。大家さんとのコミュニケーションも少ないし、隣の人とも挨拶するような感じじゃないのが寂しくて。「おかえり」って言ってくれる人がいるこのまちが、恋しくなったんですよね。

トダビューハイツの近くにある惣菜屋「kitchen つむぎ」でお買い物。ここのロゴも、戸田さんが描いたのだとか。地域に「おかえり」と言える関係性がたくさんある。

-見守り合う関係があると、子育てのときや災害時にも心強いですもんね。

戸田:はい。かといって、距離が近すぎるのもいやだから、むずかしいんですけどね。わたし人見知りなので

-え、戸田さん人見知りなんですか?

戸田:けっこう人見知りですね〜。震災後に「絆」っていう言葉がたくさん語られるようになったりとか、2016,7年くらいにシェアハウスブームがあって「コミュニティをもとう!」って言われるようになった時期があったりしたじゃないですか。ああいうのを聞いて、「わたしは苦手だ〜」って思っちゃってました。

-どの辺が苦手だと?

戸田:ひとり時間がすごく好きなんですよ。ひとりの時間が一番大事で、 その周りにいろんな人がいる生活圏がちょうどいい。その暮らしを守りたいっていう気持ちが強くて。

自分がそう思ってるから、ある種のシェアハウスっぽい強いつながりを住人さんに押し付けるのは嫌なんです。

戸田:だからといって、ひとりで完全に閉じこもっちゃうのも違うし。
それで大事にするようになったのが、“関わりしろをつくる”ことでした。

-関わりしろをつくる?

戸田:たとえばロジハイツの屋上にシェア菜園があるんですけど、農園って別にひとりで畑作業しててもいいし、誰かとおしゃべりしてもいい。そういう、ひとりでいてもいいし、誰かといてもいいような場所をつくりたいんです。

-そうか。誰かと関わってもいいし、関わらなくてもいい。選択はその人に委ねられてる。だから「関わりをつくる」じゃなくて、「関わり“しろ”をつくる」、なんですね。

戸田:そうそう! 「関わり」はつくらない。関わり“しろ”をつくることを、大家としてやっているんだと思います。

ロジハイツ屋上にあるシェア菜園「ロジガーデン」。農家「冨澤ファーム」のサポートも受けつつ気軽に菜園を持てるとあって、メンバー募集はすぐ定員になったそう。入居せずとも菜園のメンバーになることで、物件やまちに関わる人が増える。これも“関わりしろ”のひとつ。(画像:戸田さん提供)

 

「私がおばあちゃんになっても楽しいまち」であってほしい

戸田:“関わりしろをつくる”ことは大事にしてきたんですけど、ここ1、2年ぐらいで、“街ごと好きになる”っていうコンセプトも生まれたんです。

-ロジハイツも、“この街に長く住みたくなる賃貸マンション”っていうコンセプトですもんね。そのコンセプトが生まれたのは、何かきっかけがあったんですか?

戸田:トダビューハイツの空室が埋まってきて、ちょっと余裕が出てきた2019年ごろ、おばあちゃんが所有してた空き地でみんなでアイデアを出し合いながら賃貸住宅をつくる「想像建築」プロジェクトを始めたんです。

そのときに、このあたりの尾久と町屋っていう地域の歴史を調べたり、街歩きをしたりしたりしたんですけど、そしたらもう、このまちが好きで好きでたまらなくなっちゃったんですよ(笑)。

「想像建築」プロジェクトでは、物件の建設予定地を広場として暫定利用し、荒川区の魅力に触れられるイベントを開催。イベントを通して物件のコンセプトを決めつつ、未来の住人さんや近隣の方と関係性が生まれていったそう。(画像:戸田さん提供)

-下町の、人情味ありそうな雰囲気がありますもんね。

戸田:はい。特に尾久はのんびりしてますね。よく鼻歌が聞こえてくるんですけど。

-鼻歌が聞こえてくるまち! いいですねぇ。

戸田:住んでる人の気分がいいってことですからね。トダビューハイツにしても、ロジハイツにしても、そういう土地からニョキニョキ生えてる物件なんです。だから、このまちのことを気に入ってくれる人が、結果的に長く住んでくれるんじゃないかなと思ってます。

-なるほどなぁ。それで内見の時も街歩きしたりしてるんですね。でも、費用対効果的にはどうなんでしょう。街歩きもけっこう手間ですよね?

戸田:そうですね、大家さんの勉強会では、「街を好きになってもらうって、一番遠回りな道を選んだね」って言われました(笑)。でも、遠回りでもいいんです。お金の価値じゃなくて、文化の価値に投資してるような気持ちなので。

-文化の価値?

戸田:わたし、このまちで死ぬつもりなんですよ。死ぬまで居心地良く暮らしていくためには、まちに素敵な知り合いが多かったり、おもしろい文化があった方が楽しいじゃないですか。

たとえ今引っ越さなくても、何度も通ってくれたり、一度引っ越してしまってもまたこのまちに戻ってきてくれたらいいな、って思うんです。

-あぁ、なるほど。自分が死ぬまで生きるまちを、居心地よくしていくために活動してるんですね。

戸田:そうですね、そんな感覚があります。

話逸れちゃうんですけど、わたし広岡浅子さんが好きで。

-NHKの朝ドラ『あさが来た』のモデルになった、明治・大正期の女性起業家ですよね。

戸田:そうそう。広岡浅子さんって、落ちかけてた家業を継いで盛り立てたところから始まり、その後人の命を守るための保険業に取り組んで、さらに大学創立に尽力して、女子教育の普及に取り組んだんです。つまり、家業から社会へと目が広がっていったんですよね。

広岡浅子さんの生涯に触れると、「あぁ、わたしもこういう道を辿るんだな」って、自分を重ねるんです。

もともとはこの物件のことだけを考えていたけど、地域のことだったり、社会のことに目が向くようになっていくんだなって。 広岡浅子さんとはぜんぜんレベルが違うとは思うんですけどね(笑)。

ロジハイツのロゴのモチーフは、ハクセキレイ。物件近くの尾久の原公園で元気に走り回っている野鳥だそう。「おかえり」とこちらを覗いている。

 

レールに乗らない人だからこそ受け入れてくれる人もいる

-最後に、今回スマート履歴書「Proff」をつくっていただきましたが、「履歴書」に対して思うことってありますか?

戸田:うーん、そうですねぇ…「こうあるべき」みたいなレールにのるのが苦しくなるタイプなので、そこから逃げてきたというか。違う道を探すタイプですね。

家族も、幼稚園から高校まで通った学校もわりと保守的で、「レールが大事!」っていうタイプだったので、世間ってそういうものなのかなぁと悩む期間はあったんですけどね。美大に行ったら、レールを気にしない人がたくさんいて、楽になりましたね。

-周囲の環境の影響は大きいですよね。まわりのみんながレールを気にしない環境だと、自分も気にならなくなるというか。

戸田:はい。ちょうど就活の頃、ITベンチャーブームがきて、web制作が好きだったからwebデザイナーの求人を見てたら、「履歴書の提出はいらないよ」みたいな企業もあったので、エントリーしたら受かったんです。レールに違和感を持ってしまう自分も受け入れてくれる人たちもいるんだな〜、と思いましたね。

戸田:あと、履歴書の提出が必要だけど、「これ、実際は読んでないな」と思うこともあったりして(笑)。だから、履歴書とは別にもっとわかりやすい「自分年表」みたいなものをつくってわたすとか。そんなふうに、工夫しながら楽しく就活してました。

-楽しくレールを外れていたんだ(笑)。

戸田:はい(笑)。今思えば、履歴書にしても大家業にしても、レールからははずれるようなことをしてきたと思うんですけど。むしろ、はずれるからこそ受け入れてくれる人があらわれるんですよね。

-大家業も、街歩きまでするとか、ユニークな物件のサイトをつくるとかいったことは、常識からは外れることかもしれないですね。

戸田:はい。実際におばあちゃんからは「なんでそんなことにお金と労力をかけるのかわからん!」って反対されました。なので、「やっちゃえ!」と思って、特に相談なくサイトつくったりしてました。

レールを外れて何か失敗しても、あとから謝ればいいだけなこともあるので。反対されても、「やっちゃえ!」って気持ちで突破することはありますね(笑)。

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人が混ざりあう場所が、私を救ってくれた。 福祉環境設計士・藤岡聡子の「“生きる”がめぐる環境をつくる」生き方 https://mag.proff.io/interview/satokofujioka/ Wed, 19 Oct 2022 21:00:55 +0000 https://mag.proff.io/?p=1212 診療所と大きな台所があるところ

-はじめてほっちのロッヂを訪れたんですが、なんだか不思議な空間ですね。台所があって、みんながくつろげるリビングみたいな場所があって、診察室があって、画材やキャンバスが置かれた部屋もあって…。

藤岡:わたしたちはここを、「診療所と大きな台所があるところ」って呼んでるんです。

-診療所と大きな台所があるところ。

藤岡:ふつう、診療所に台所はないですよね。医療って暮らしから切り分けられて、病院で医者や看護師に指示されるもの、みたいな状態になっていると思うんです。

でも、医療だって人の暮らしの一部じゃないですか。お腹が痛いあなたとご飯を食べて美味しいと思うあなたって、同じ人間だし。医療だけじゃないけど、暮らしからいろんな機能が分断されすぎてるんじゃないのかなって思うんですよね。

-なるほどなぁ。体調がわるくなったら病院に行って、お腹が空いたらレストランに行く。当たり前のように思ってましたけど、言われてみれば、そこには「暮らしの分断」があるわけですね。

藤岡:そうそう。ほっちのロッヂは、そういう分断をとりはらって、分断のない「暮らしの営み」みたいなものを取り戻すような場所なんです。そういう思いを込めて、「診療所と大きな台所があるところ」って呼んでるんですよね。

-「大きな台所」っていうのが、いいですね。つい来たくなっちゃう。

藤岡:ははは!そうでしょう?人って、美味しそうな匂いがするところには行ってみたくなりますよね。だから大きな台所があれば、いろんな人が集まって、ケアされる側の人もケアする側の人も、次第に境界が曖昧になっていって、「やりたいこと」に応じて互いに支え合うような環境ができるんじゃないかな、と思ったんです。

(写真:藤岡さんご提供)

 

人が力を発揮できるかは、環境に大きく影響される

-藤岡さんの「福祉環境設計士」という肩書きも、とてもユニークですよね。

藤岡:「こういう資格あるんですか?」ってよく聞かれるけど、ないんです。自分で名付けちゃったんですよね。「福祉環境設計士って、なんだろう?」って、興味を持ってもらえるんじゃないかなって思って(笑)。

-具体的にはどういうお仕事をしてるんですか?

藤岡:なんだろうなぁ…。いろいろやってるんですけど、けっこう草むしりしてますね。

-え、草むしり!?

藤岡:あとは用水路の整備とか。まぁ、草むしりとか用水路の整備ばっかり、っていうのはおおげさかもしれないですけど(笑)。でも、環境全体を見てます。

-環境っていうのは、自然環境という意味のことではなくて、自然や建物や人の関係を含めた、人をとりまく状況っていうことでしょうか?

藤岡:まさにそうですね。わたし、これまでも福祉に関わる事業に取り組んできましたけど、どれもケアする人とされる人を区別するんじゃなくて、誰もが集まって交流できる環境をつくってきたんです。ほっちのロッヂでも、それをやっていて。

-ケアする人とされる人の境界がない場所をつくっている…ということですか?

藤岡:あくまでも、つくってるのはここにいるみんなだと思ってます。ほっちのロッヂって、医師とか看護師、介護や保育とか、専門性を持った人たちが、それぞれの力を発揮して、いろんな営みが行われてるんですね。

でも、わたしは医療の資格を持ってないから、診察したりワクチンつくったりとかは一切できない(笑)。じゃあわたしになにができるかっていったら、環境をととのえることなんですね。

-環境をととのえること。

藤岡:それは空間づくりだったり、人の採用だったり、お金のことだったり、草むしりや用水路の整備だったり…あらゆることなんですけど。ひとことでいえば、全体を見ながら、一人ひとりが力を発揮できるように環境を整えてる、っていうことかなと。

-つまり、一人ひとりが力を発揮するのは、個人の力次第ではなくて、環境に左右されるわけですか。

藤岡:そう思います。環境の影響はすごく大きいと思う。だから「福祉環境設計士」って名乗って活動してるんですよね。

 

がんで亡くなった父親を、気持ちよく送れなかった

-どうして、環境が人に与える影響に関心が向くようになったんですか?

藤岡:だいぶさかのぼっちゃうんですけど、わたしが小6の時、父を肺がんで亡くしているんです。そのとき、父親を気持ちよく送れなかったんですよね。

父は医者をやってたので、人を治す側の人で。それに、まだ45歳で若かったし。そんな父が、どんどん痩せてくわけですよ。がんが見つかってから2年で亡くなるんですけど、弱っていく父を見て、「怖い」って感じてしまったりもして。頭ではわかってるけど、心が追いつかない。なんでだろう、どうしちゃったんだろう…みたいな。父の死に、ちゃんと向き合えなかったんです。

だから、変な話、父が亡くなったときにちょっとほっとした気持ちもあって。

-ほっとした…っていうのはどうしてでしょう?

藤岡:もちろん寂しいですよ。ものすごく寂しい。だけど、自分がよすがにしているような力強い存在の人が、みるみる衰弱していってる姿を見ているのは、怖いし、きつかったんですよね。それが八十歳のおじいちゃんだったら「おじいちゃんよく生きたね」っていえるかもしれないけど、父は当時45歳ですから…。

そういう、大切な人が目の前で衰えていくことのつらさから解放されて、ほっとする気持ちもあったんだと思います。でも裏を返せば、死とちゃんと向き合えてなかったっていうことでもあって。

だから、気持ちよく送れなかったっていう心残りが残ったんです。「父親をちゃんと送れなかった自分は、よくない存在なんだ」みたいに、自分を責めるようになって。

それ以来、「人が生きることとか死ぬことを、どう捉えたらいいんだろう?」っていう問いが、ぐるぐる頭の中で回るようになりました。

 

歪んでいた自分を正してくれる人との出会い

藤岡:父親が死んでしまってから、母親とも口をきかなくなったんですね。中2から高2くらいまで、母親と顔を見てしゃべらなかったんですよ。ほぼ家出してるような感じで、まぁ、グレてたんです。“ やさグレ”ていた。家族もぐちゃぐちゃになって。

そのころから、同じ年齢の子達といることもすごくしんどくなって。友達が無邪気に笑っていることも、「能天気に笑いやがって」みたいな。今思うといやな奴ですけどね(笑)。それで、中学も行かなくなったんです。あの頃はしんどかったですね。

-そのしんどい時期を抜け出せたのは、なにかきっかけがあって?

藤岡:夜間の定時制学校に通うようになったのが大きいです。その学校とか、その延長ではじめたバイトが、自分の居場所になったんですよ。

定時制高校って、年齢もバックグラウンドもバラバラな人が集まっていて。言葉はわるいですけど、どうしようもない大人もいっぱいいるんです(笑)。遊ぶ金欲しさに、バイト先のお金を盗んでキャバクラ行っちゃうような人とか。「もっとまともになりなよ!」って、15歳くらいのわたしが30,40くらいのおじさんに怒ってましたから(笑)。でも、かっこいい大人もいましたね。

-印象に残ってる人はいますか?

藤岡:わたし、朝7時から夕方5時までガソリンスタンドで働いてたんですけど、同じ時間に勤務してる女性がいたんです。ターちゃんっていうんですけど、当時40代くらいで、金髪のソバージュで、タバコをスーッと吸って。かっこいい人なんです。

ターちゃんは当時、血のつながらない子どもを立派に育ててました。意志がなきゃできないですよね。「ドラマか!」っていうような人生を生きてた人なんですけど。

藤岡:ターちゃんからは、いっぱいピアスがついてるから「ピー助」って呼ばれてて。一緒に働くようになって半年ぐらい過ぎたとき、「ピー助、お前さ、その弁当誰につくってもらってんの?」って聞かれたんですよ。こう、タバコ吸いながらですよ。「…おかんやけど。」って答えたら、「お前、ありがとうつってんの?」って。内心、「あー、やばい…」みたいな(笑)。

-お母さんとは喋ってなかったわけですもんね。

藤岡:そう。わたしいつも、アルバイト先のガソリンスタンドに行くために、朝6時40分くらいにバイクで家を出てたんですけど、毎朝必ず母親が弁当をつくってくれてたんです。わたしが目も合わせないから、母も「どうしよう…」って感じだったと思うんですけど、なにも言わず弁当をつくってくれてた。それに対して、お礼を言ってなかったんです。

たぶん知らず知らずのうちに、父親が死んだことからくるストレスを母親に向けてしまってた部分があったんでしょうね。なんか、当時のわたしはすごく歪んじゃってた気がする。

-それをターちゃんに見透かされてたのかなぁ。

藤岡:どうですかね、わからないですけど、でもターちゃんの言葉はガツンときたっていうか。わたしが歪んでた部分を、ターちゃんは正してくれたんだと思う。

大切な人にありがとうと伝えるっていう、当たり前のことだったりとか、自分がお世話になった人への気持ちの向け方みたいなところを、軌道修正してくれたのがターちゃんだったんです。

それ以来、母親とメールをし始めて。本当に、それまでの時間を埋めるかのように、どんどん関係性も良くなっていったんです。

 

混ざり合うことが、人を許しもする

-ターちゃんをはじめ、定時制高校やバイト先が居場所になったのは、なぜだったんでしょう。

藤岡:それはきっと、ぜんぜん違う属性の人が混ざり合えていたからだと思います。

それまでは、「お父さんをちゃんと送れなかった子」として生きていかなきゃいけないって、自分を責めてたんです。でも、あまりにもいろんな境遇の人と出会って、「まぁいっか」って、自分を受け入れられるようになったんですよ。なかにはターちゃんみたいに応援してくれたり、わたしも応援したくなるような気持ちが生まれた人もいて。

-同じような境遇やバックグラウンドの人、ではなくて、いろんな人がいたのがよかったんですか?

藤岡:本当にそうだと思います。いろんな人が混ざり合うということは、その場にいる人を許しもするんですよね。いろんな人がいることでしんどさが生まれる人もいると思うけど、わたしにとっては本当に救いだったんですよ。

-いろんな人が混ざり合うこと…。なんだか、今の藤岡さんがつくっている場にも通じている気がします。

藤岡:ほんと、つながってますね。環境っていうものが、人が困難から解放されていくためにすごく必要なんだ、って思うようになったのは、あの10代の経験が大きい。少なくともわたしは、環境によって変わったので。環境を変えることが困難を乗り越える唯一の正解だとは思わないけど、「固定化された関係性はつくってはいけないな」っていうことはすごく思うようになりましたね。

『ポニョ』を観て、「こんな場をつくりたい」と思った

-その後、『崖の上のポニョ』を観たことも人生に大きな影響を与えたそうですね。

藤岡:そうなんです。それまでもジブリの映画に救われたことはあったんですけど、大学4年のときにはじめてポニョを観たら、大泣きしちゃって。

-どのあたりが琴線に触れたんですか?

藤岡:主人公である5歳の保育園児・宗介とポニョを、たまたま居合わせたおじいちゃんとかおばあちゃんが「宗介、いいぞ!」みたいな感じで応援するわけですよね。なんか「そうだよね〜」って、異様に泣けちゃって。ポニョみてそんなふうに泣く人、わたしくらいかもしれないですけど(笑)。

なんか、ちゃんとバトンが渡されてる感じがあったのかなぁ。老いていく人たちや亡くなっていく人たちも、純粋に役に立ちたいっていう、生きる上ですごく大事な気持ちがあって、誰かに勇気を与えたり、背中を押すことができるんだって。わたしは父親をちゃんと送れなかったっていう背景を背負ってきちゃってるから、すごいガツンときたわけですよ。

-あぁ、そうか…。老いたり亡くなっていくからといって、ケアされるだけの存在じゃない。バトンを渡す側にもなれるわけですね。

藤岡:そうそう。それで、ポニョの舞台になってる街は、保育園と、そのそばに高齢者が通うデイサービスと呼ばれる場所があるんですね。だからわたし、「このふたつが地続きになるような場所を、実際につくりたい!」って思ったんですよ。

そのあと、新卒2年目の24歳のときに、友人から老人ホームの立ち上げを一緒にやらないかって誘われたんです。その友人には、ポニョをみて「こういう場をつくりたい」って思った話なんてしてないから、びっくりなんですけど(笑)。それで、介護ベンチャーの創業メンバーとして、住宅型有料老人ホームの開設に携わったんです。

けっきょく、1人目の子どもができたことと、母が末期がんになり看病が必要になったことが重なって、介護ベンチャーからは離れることになるんですけど。それから10年以上、場所やかたちは変えながらも、ケアされる側の人もケアする側の人も混ざり合う場所をつくり続けています。

 

生きることと老いること、をめぐらせる

-その後藤岡さんが取り組んできた「長崎二丁目家庭科室」や「ほっちのロッヂ」にも共通する、藤岡さんの哲学みたいなものがある気がするんです。それって、言葉にするとどういうことなんだろう…

藤岡:あぁ、なんでしょうね…なんか最近は、「めぐり」があるといいなって思ってるんですけど。

-めぐり?

藤岡:人が生きることや老いることって、本来そのあいだに境界はなく、めぐっているはずで。だけど現代社会では、分断されてる気がするんですよね。たとえば、病気がある人は病院へ、お腹が空いた人はレストランへ。障がいがある子は特別支援学級へ…みたいな。

そうやって分けられていることが心地いいと思う人もいれば、わたしみたいに「なんか、違和感があるな」と感じる人もいる。だとすれば、その違和感を感じた人たちが、「ここは居心地がいいな」って思えるような環境をつくりたいんだと思います。それは、生きることや老いることが分断されていない、めぐりがいい環境なんだと思う。

-めぐりって、いい言葉ですね。高齢者とか子どもとか、障がいがある人とかない人とか、お医者さんとか患者とか。世の中ではそれらは区別されているけれど、その壁を取りはらうことで、いいめぐりが生まれる。

藤岡:そうそう。それが唯一の正解ではないけど、わたしみたいに、それによって救われる人もいると思うので。

でも別に、ほっちのロッヂじゃなくてもいいんですよ。バーでもいいし、おやつ屋さんでもいいし。今はたまたまこの場所でやっていますけど、分断されて、めぐりが滞ってるところはたくさんあるので、そういうところでめぐりをよくしたいなって思います。

-藤岡さんの話を聞いて、ほっちのロッヂで感じる心地よさの理由が少しわかった気がします。

藤岡:あー、そう言ってもらえると嬉しいですね!だから、最初の話に戻りますけど、めぐりをよくするためには、草むしりとか用水路の整備が必要なんですよ。別にスピリチュアルの話じゃないんですけど、風の通り道をつくってあげるというかね。

-なんだか、久石譲の音楽が聴こえてきそうですね(笑)。

藤岡:ははは!ちょっとジブリっぽい話ですね!

 

履歴書の空白が糧になる

-最後に、みなさんに履歴書についての考えを聞いているんですが、藤岡さんは「履歴書」に対してどんなイメージがありますか?

藤岡:「履歴書の空白」みたいな言葉があるけど、「空白ってなんやねん!」って思いますね。わたし、新卒で入った人材教育の会社を1年ちょっとで辞めて、友人と老人ホームを創業したんですけど、その会社も数年で離れているんです。先ほど言ったように、1人目の妊娠がわかったことと、母親の末期癌が見つかったので、仕事を続けられなくなって。

藤岡:あとは、2020年にほっちのロッヂを創業してから、早々にうつ病になって、めちゃくちゃしんどかったこともあります。半年間ぐらい、ずっと苦しかった。その頃の記憶すら曖昧です。

-そんな時期が…。

藤岡:でも、そういう経験って、履歴書には書けないけど、その後の人生の糧なんですよ。

すっごく落ちた時期とか、なにもできないような時期って、物事に対する見方を変えてくれますよね。他者を許容できるようになったり。わたしも親の看取りやうつの時期に、ものすごいしんどさとか、社会の理不尽を経験して、「こういうことを解決できたら、わたしみたいな人たちが生きやすくなるのかな」って、考えるようになったし。

-その時期がなかったら、今の活動はない?

藤岡:ないと思う。逆に、履歴書に空白がない人は、「糧になる経験はあるかな?」って心配になります(笑)。ぎゅっと詰まった履歴書の人もいるかもしれないけど、大事なのは履歴書に空白があるかないかじゃなくて、「そこで得た糧は何?」ってことなんですよ。

-大事なのは履歴書の空白の有無じゃないと。

藤岡:そうですね。空白があったとしても、その1年なり3年なり5年なりで得た糧は何なんだろう?っていうことを、自分自身で言語化する努力は止めちゃいけないのかなって、すごく思います。

-なんだかほっちのロッヂ自体も、藤岡さんの糧がたくさん詰まってる空間に見えてきました。

藤岡:えー、そうなのかな!?(笑)。でもほんと、みんながつくってる場所なんですよ。わたしは医療の専門的なことはできないから、わたしは用水路の泥をかき出してもらうために役場に連絡したり。相手には「こいつ誰だ?」って思われてますけどね、きっと(笑)。

 

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死も過ちもふくめて、人は美しいって信じてる。 脚本家・舘そらみの「人と世界を肯定する物語をつくり続ける」生き方 https://mag.proff.io/interview/datesorami/ Fri, 16 Sep 2022 10:49:34 +0000 https://mag.proff.io/?p=1194 脚本家は、台詞を書くだけの仕事じゃない

-ほんとうに無知で恐縮なんですが…脚本家や演出家って、なにをする仕事なんですか?

そらみ:なんだろう…自分がなにやってるのか、マジで説明するのむずかしいんですよ(笑)

しゃべりやすいから脚本から説明するんですけど、まずプロデューサーと一緒に、どういうテーマで作品をつくるかを考えるんですね。今の人たちってこういう孤独を感じてるから、こういうのをテーマにしようとか、この人物はどんな人間なんだろうとか。そういう話をしながら、物語を考えて、最後に台詞におこすんです。

-へえ〜! 僕のイメージだと、脚本に台詞を書いていくことが脚本家の仕事かと思ってました。

そらみ:でしょう? それはよくある誤解なんですよ(笑)今がどういう社会か、そしてそこに生きるのはどんな人間かを考えていくのが先で、台詞なんて最後。そのキャラクターの人間性とか社会を根本から理解しないと、登場人物の感情の動きが嘘っぽくなって、台詞も嘘っぽくなって、つまらなくなっちゃいますからね。

-なるほど。では、演出はどういうことをやるんでしょう?

そらみ:演出は…なんでしょうねぇ。説明がむずかしいけど、その物語がどうしたらお客さんにちゃんと届くか、美術の人とか音楽の人とか俳優さんと話しながら、バランスを調整していくのが演出家、っていう感じかな。

なんか、脚本を書くときよりもお客さん視点でいるかもしれない。脚本を書いているときはその世界に入り込んでるけど、演出のときは客観視してるかな…

-合っているかわからないですけど、料理でたとえると演出は盛り付け、みたいな感じですか?

そらみ:あー、そう! その感覚にすごくちかい! レシピをつくるのが脚本家で、演出家はそれをどういう器で、どういう盛り付けにしたらお客さんにちゃんと喜んでもらえるのかを考えてるんだと思うな。

 

脚本や演出の能力は、教育やロボット開発に応用できる

そらみ:わたし、作品を生み出すのがマジで好きなんだけど、この脚本とか演出の能力って、意外と応用できるなってことに、最近やっと気づき始めたんですね。

-映画やドラマ、舞台以外の仕事もしているそうですね。

そらみ:そうなんです。小中高で演劇の要素を使いながらワークショップをやったり、地方に行って、アーティストの視点で「ここの人たちはこういうコミュニケーションの特徴があるから、こうしたら活性化するんじゃないか」っていうことを提案したりね。

子どもたちと演劇作品をつくるワークショップの様子(画像:そらみさん提供)

そらみ:あと、たぶんわたし、ロボットのキャラクター設計を日本で一番やってる人間なんですよ(笑)

-ロボットのキャラクター設計!?

そらみ:ロボットって、ちょっと演出的な要素を入れるとすごく生き生きとしたものに変わるんです。

たとえば、コップを飲む動作をするロボットがいたときに、単純にロボットの性能を上げるならスムーズに飲ませるじゃない? それをあえて、人間っぽい雑味を加えるの。コップを持ったまましゃべり出して、ちょっと口をつけただけで、しゃべってるあいだに置く、とか。

-なるほどなぁ。ドラえもんも、ちょっと鈍臭いところがありますもんね(笑)

そらみ:そうそう。そういう雑味みたいなものがあることによって、人間ってシンパシーを感じるようになるんですよ。話し相手がいなかった一人暮らしの高齢者の方が、家にロボットがいるとお化粧をするようになったりするんです。

-それはすごい! 演出的観点でロボットに人間味を加えてるわけですね。

 

人と世界が好き

そらみ:やってることはいろいろあるけど、自分のなかではずっと筋が通ってる気がします。結局、人と世界が好きなんですよね。

-人と世界が好き。

そらみ:「人間すげーな」って思うんですよ。どんなに落ち込んでても、誰かが「ハンカチ落としましたよ」って言ってくれただけで「はっ!」て、ちょっと嬉しくなるじゃないですか。

それって、別に友達とか家族とかじゃなく、全く知らない人でもよくて。なんか、人間が存在してるだけで他人に与えるパワーってすごいなって思ってて。人間に対する憧れっていうか、超信頼があるんです。

-超信頼。それは良い人に限らずですか?

そらみ:限らずだと思う。知らない人にいきなり騙されたとしても、「はー!? なんなの!?」っていうエネルギーくれるじゃんって。そりゃ良い人のがいいけどさ(笑)

-たしかに(笑)

そらみ:で、世界にはそんな人間たちが含まれてる。わたしたちをとりかこむ世界には、日本人もいればブラジル人もいればフランス人もいれば、宇宙人も草木も存在してるでしょ。そういう、目には見えない大きなものに内包されて生きてる感覚がわたしにはあって。そんな世界の存在を、美しいって思うんですよ。

-人間への超信頼と、世界の美しさと…。そらみさんが見えているそうしたものは、脚本や演出に通ずるものがあるんですか?

そらみ:そうそう、自分の中ではすごく通じてるんです。人間もこの世界も美しいって思う。それは、一見ダメだと思われるような部分も含めてね。だから、そんな人間とか世界の美しさを表現し続けてるんですよね。

地域の資源を発掘するために探索中のそらみさん(画像:そらみさん提供)

 

この世には理不尽なことがめちゃくちゃあるぞ

-どういう経験を経て、そらみさんの考え方がかたちづくられていったのかが気になっているんです。プロフによると、幼少期は海外に?

そらみ:そうですね。4歳までは日本にいて、4歳からトルコ。小学校時代はトルコとコスタリカにいて、中学から日本に戻ってきました。

小学校時代のわたしって、「戦争嫌い! 世界を平和にしたい!」っていう思いを、ものすごく持っていた少女だったんです。

-それはなにきっかけが?

そらみ:ちょうどトルコにいたころ、湾岸戦争があったんですよ。イラクがクウェートに侵攻したことをきっかけに起きた国際紛争だったんだけど、トルコに住んでると、湾岸戦争ってすごく身近な出来事なんですね。

-ああ〜、そうか。イラクとトルコは国境を接していますよね。

そらみ:そう、だから、幼稚園のとき親友だったアフリカ出身の子のお父さんが、テロで殺されたりとかして。戦争が原因で引っ越さなきゃいけない子もいたりするわけ。

そういうことが身近にあったから、「この世には理不尽なことがめちゃくちゃあるぞ」って、子どもながらに思ってて。両親からは「国籍関係なく、みんな友達だよ」って教わってたから、ストリートチルドレンに自分が持ってるものをあげちゃったりしてたんだけど、親からは怒られるの。

それも「なんで? 友達だって言ったのに」みたいに、理不尽だなって感じて。世界には理想と現実があるぞ、ということをすごく感じながら育ってましたね。

 

政治家を目指すも、「世の中そんな綺麗ごとばかりじゃないぞ」

そらみ:「なんでわたしは、屋根がある家で、ご飯もお腹いっぱい食べれてるんだろう?」って考えたら、たまたま親が日本人だっただけだなって思ったんですね。

戦争をしてる国の子たちと比べたら、日本人であるだけで恵まれてる。だから、「せっかく日本人として生まれ落ちたんだったら、できることをやろう!」と燃え盛って(笑)

それで、小学校6年生くらいのときに「政治家になって、戦争を止めたい!」って考えるようになったんですよ。中学で日本に戻って、中学3年生くらいから、政治家の事務所にお手伝いさせてもらうようになって。

-中学3年生で!? かなりはやいですよね。

そらみ:帰国子女っぽいのかもしれないけど、「やりたいことがあったら自分が子どもだろうがなんだろうが、やればいいじゃん! 」って思想がありましたからね。とりあえず、事務所の門を叩いてみたら、受け入れてくれたんです。で、大学も日本で一番首相を輩出している学科に入って。

でも、政治家のお手伝いをするうちに、自分がインテリっぽいことがコンプレックスになっちゃったんですよ。勉強もそこそこできたし、家庭環境もわるくなかったから、貧困状態にあるような人の感覚がわからないぞ、って。

-めぐまれた環境にいることが、むしろコンプレックスに。

そらみ:そうなの。わたしはきれいごとだけじゃなくて、現実も知っておきたかったのね。だから、いろんな人に会うために、歌舞伎町で水商売を始めたんですよ。結局、ずっと酒飲んでるって感じになるんだけど(笑)

-政治家の事務所とはまったく異なる世界ですよね、きっと。

そらみ:ちがいますねぇ。だんだん、政治のことをやってるときの世界より、歌舞伎町でおじさんと飲んでるときの世界の方が、真実のような気がしてきちゃったんです。「世の中、綺麗ごとでうまくいくもんじゃないぞ」って、わかってきたのね。

それで、最終的に大学を休学して、世界一周に行くことにしたんです。

世界一周をしたら、存在理由がわからなくなった

-どうして世界一周に?

そらみ:なんかね、やわらかい心を持ち続けたかったんですよ。自分と価値観のちがう人とたくさん出会えば、ちがいを受け入れられるような、やわらかい心を持てるんじゃないかと思って。だから、できる限り紛争地とか戦争が起こってる土地に行って、住み込みでボランティアをさせてもらいながらまわったんですね。

そしたらもう、訳が分かんなくなっちゃって(笑)「戦争はダメ!」って思ってたけど、いざ戦争が起こってる場所で毎日過ごすと、あまりに問題が根深くて、「単純に戦争ダメとか言えるレベルじゃねーぞ…」みたいな、当たり前のことをとにかく痛感して(笑)

たとえばイスラエルにいったら、アラブ人がすごく親切にしてくれて、「そらみ、一本隣の通りには近づくなよ。殺されるから」って言ってくるんですね。でもその一本隣の道を歩くと、ユダヤ人が親切にしてくれて、「そらみ、隣の通りに行くとレイプされるから行っちゃ駄目だぞ」って。

-あぁ〜。お互いにとっての真実があるというか…どちらが正しい、なんていえないですよね。

そらみ:話すと、一人ひとりはみんないい人なんですよ。それでも、争いは起こってしまう。そういう現実にたくさん直面して、ちょっとパニックになって。「戦争反対!」って、無邪気に言えなくなっちゃったんですよ。

-それまでの価値観ががくずれてしまったような。

そらみ:そうですね。そのあと、チベットでダライ・ラマの教えを受ける機会があったのね。申し込めば誰でも受けれるんだけど。「欲は捨てましょう」とか「生きてるだけでありがたい」とかいう言葉に触れてるうちに、「世の中を変えて、平和を実現したい」っていうモチベーションが、欲深いものに思えたというか…。

そんなこともあって、自分を奮い立たせた価値観がパン! ってなくなったから、「わたしはなにをして生きていけばいいんだっけ?」って、わかんなくなっちゃったんです。

 

花火を打ち上げて散るぜ!

そらみ:一応大学は卒業して、イラクに病院を建てるような国連系の会社に就職してみました。でも、モチベーションもよくわかんなくなって、しんどくなっちゃって。あとで病院にいったら、その頃から鬱になってたっぽかったんですけど。

だから一年で会社を辞めて、劇団を立ち上げたんです。

-鬱になったけど劇団を立ち上げた…まだピンとこないんですけど、どうして劇団を?

そらみ:小学校ぐらいから演劇が大好きだったんです。トルコとコスタリカにいたときも、テレビで夜中にNHKの舞台中継をやってたから、ビデオに録って繰り返し観てたくらい好きで。

大学生のときも演劇サークルに入ったんだけど、よもや自分が仕事で演劇をやるとは思っていないというか。演劇を仕事にする人なんて選ばれし者だと思ってたし。

で、社会人になってから存在理由を見失って、鬱になって。このメンタルだったら、多分このさき生きていけないな、と思ってたのね。で、「もうすぐ死ぬとしたら、最期に花火を打ち上げて散るぜ!」みたいなことを思うようになって。ポジティブなのかネガティブなのかわかんないけど(笑)

そう思ったときに、「わたしが最期に打ち上げられる花火は演劇だな」と思って。ある意味、ロック的な根性で演劇をやってましたね。

-なるほどなぁ。最期の花火が演劇だったと。でも、一作品じゃ終わらなかったわけですよね。

そらみ:それがね、「わたしがこの作品を世に出したら、世界はひっくり返るぜ!」って思いながらつくるんだけど、舞台が終わってみたら、それまでと同じ日常が繰り広げられてるじゃない? 当たり前なんだけどさ(笑)

それが悔しくて、「次こそはひっくり返すぜ!」みたいな。これが最後の作品になるって信じて、でもひっくり返らなくて、また頑張る…そんな繰り返しで、馬車馬のように作品をつくってきたんですね。

 

この世界は美しいはずだ

-つくった作品が思ったように届かなくても、心が折れずに何度も取り組むのって、簡単なことじゃないですよね。なにがそらみさんをそうさせたモチベーションだったんですか?

そらみ:あぁ。それは、思春期以降に出会った人の存在が大きいかもですね。世界一周で出会った人達とか、歌舞伎町で会った人達とか。

戦争みたいな悲惨なことがあって、まわりでいっぱい人が死んで、家も銃弾が撃ち込まれてボロボロになって…。そんな状況にあっても、わたしよりずっと楽しそうに生きてる人たちをたくさん見てきたんですよ。どんな状況にあっても、「この世界は美しいはずだ」って信じて、楽しく生き抜いてる人が、たくさんいたわけ。

そういう人たちに触れると、「人間すげーな」とか、「世界すげーな」って思うんです。人間の、どんな状況でも楽しく生きることができる力に、わたしはすごい憧れがあるの。その憧れが、わたしを牽引し続けてくれてるんですよね。

死が身近にあると「生きよう」という気持ちが湧いてくる

-鬱はどうやって克服していったんですか?

そらみ:克服したのが20代の後半なんですけど、ひとつのきっかけは磁気治療をやったこと。もうひとつは、葬儀屋で働いたことなんですよ。

-葬儀屋で!?

そらみ:そうなの(笑)すごく伝え方が難しいんですが、遺体に会いたくて。当時は演劇を馬車馬のようにやって、でもどんどん疲弊していって。酒の力を借りて、なんとかやってたんですよね。

磁気治療の効果があって、ちょっと冷静さを取り戻した時に、もうちょっと調子を良くするために何か行動を起こそう、何があったらわたしは元気になるだろうって考えたら、「死が足りねぇぞ」って。

-死が足りねぇ…

そらみ:死は当たり前のことなのに、日本だとそれが日常生活の中では感じられないじゃない? 小さい頃から死を身近に経験してきたわたしにとって、死が見えないことはめちゃくちゃ大きな欠落だったんですね。

だから、葬儀会社で働こうと思って、アルバイトみたいな感じで働き始めて。毎日遺体に会うようになったら、みるみる元気になったんです。やっぱり、すごい安心したんですよね。遺体がそばにある生活って。

-どうして元気になったんでしょう? むしろ落ち込んでしまう人もいる気がするけど…

そらみ:……なんっていうか……遺体に触れると、ついさっきまで自分と同じ人間だったにもかかわらず、ものになってることを実感するんです。

そういう、死を当たり前に意識する瞬間が、わたしの中では必要で。そこが埋まったときに、びっくりするくらい元気になっていたんです。「死を意識すると生を意識する」ってことなんだと思うんだけど、なんか、当たり前のサイクルに安心したって感覚でした。

わたし自身も、生きにくい時代があって。特に、メンタルの不調が身体にくるタイプだったので、身体が痛すぎて寝転ぶこともできないみたいな状態が長くて、「死んじゃうかも」って思ってた。でもそういう、死を意識した時期があったおかげで、今は気軽に生きてることを楽しめてる気がします。

死が当たり前にある生活が、好きですね。それは、「死にてえ」とか何か高尚な感覚とかではなくて、好きなんです、隠されてない方が。

 

「まだ死にたくねぇ!」って思い続けていたい

-そらみさんが脚本や演出に取り組むのは、今日話してくださったような人間や世界の美しさを、誰かに伝えたい、っていう感覚があるからなんですか?

そらみ:どうなんだろうな…誰かに感じて欲しいってことより、わたしがそんな人間や世界の美しさに包まれていたいんですよ(笑)作品を生み出すという行為自体が、わたしにとってすごく楽しいの。もし、それを通して誰かにも何かを感じとってもらえたら御の字、みたいな順序かもしれないな。

-まずは自分が幸せである、っていうことが大きいんだ。

そらみ:そうですね。わたし自身が、「まだ死にたくねぇ!」って思い続けていたいの。まだまだ見てないものいっぱいあるし、「世の中の美しさを味わいきれてねぇぞ!!」って思い続けていたい。自分自身がそういう美しさを味わうために、作品をつくり続けてるんだと思いますね。

…なんかすごい深く考えてる人みたいになっちゃった(笑)実際は、日々お酒を飲みながら、楽しいことをひたすらやってきてるだけなんですけどね!

 

インタビューを終えて

思い返せば、自分を生きづらさから救ってくれるような映画やドラマは、悩みや矛盾、過ち、そして死といった、一見ネガティブだと思えるようなことまでひっくるめて受け止めて、「あなたは生きていていいんだよ」というメッセージを伝えてくれていたように思います。

そんな作品の裏には、「どんな人間も美しい」と心から信じる作り手の存在がある。そらみさんはきっと、そんな作り手のひとりです。

そんな人たちがつくった作品に、映画館やテレビやスマホで身近に触れることができるのは、救いでもあり希望でもあるな
…そんなことを思った取材でした。

 

お知らせ

演劇団体「ガレキの太鼓」の新作公演『「没入すると怖いよね、恋愛」の略で没愛』(作・演出:舘そらみ)が開催予定です。詳細はこちらのページから!

また、トークイベント『映画『手』公開記念!脚本家・舘そらみと一緒に愛と性と人生を語らう夜』も、2022年9月20日(火)に開催予定。こちらのページからぜひチェックを!

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心の声に一緒に気づいた瞬間が、きっとその人の人生を支えてくれる。 コミュマネ&アナウンサー・和田早矢の「聞くことを通して、人生に寄り添う」生き方 https://mag.proff.io/interview/wadasaya/ Wed, 25 May 2022 21:00:44 +0000 https://mag.proff.io/?p=1168 コミュニティマネージャーとアナウンサーのパラレルキャリア

-コミュニティマネージャーとアナウンサーって、けっこう別の仕事っていうイメージがあったんです。そのふたつの仕事をしてるのがおもしろいなぁと。具体的に、今はどんなことをしているんですか?

わださや:実は2021年の11月に子どもが生まれて、今産休中で。今月末(筆者註:インタビューをしたのは2022年4月)に復帰するんです。

仕事は、まさにおっしゃってくださったように、コミュニティマネージャーとアナウンサー。コミュニティマネージャーのほうは、株式会社ツクルバが運営して全国に広がっている「co-ba」っていうコワーキングスペースで、コミュニティマネージャーをしています。

-コミュニティマネージャーは最近増えてきてますけど、その役割はコミュニティによっていろいろですよね。わださやさんはどんな業務を?

わださや:やってることはほんとうに幅広くて、施設の立ち上げやイベントの企画運営、オンラインラジオの配信などですね。どの施策も、どうやったら「co-ba」に入居してる人のチャレンジを応援できるかとか、良いコラボレーションを生み出していけるのかっていうことを考えて取り組んでいます。

「co-ba」の拠点のひとつに、「NEXs Tokyo」っていう、東京都主催で全国のスタートアップの起業家を支援している拠点があって。そこの運営を「co-ba」が担っているんですね。わたしはその「NEXs Tokyo」のコミュニティマネージャーとして、全国の起業家のサポートをメインに取り組んでいます。スタートアップと自治体の方、ベンチャーキャピタルの方などのコラボレーションが生まれるように、いろんな施策を企画して、実施しているんです。

-なるほど。そうした活動をしながら、フリーアナウンサーとしても活動をされているんですね。

わださや:そうですね。局アナだった経験をいかして、結婚式などのイベント司会をやったり、あとはラジオのパーソナリティをやったりですね。産休前は月2〜3本くらいやってたかな、と思います。

 

アナウンサーもコミュマネも、「聞くこと」が大事

-コミュニティマネージャーとアナウンサーは、わださやさんの中ではどうやってすみわけてるんですか?

わださや:それが、わたしの感覚だとけっこう共通してるんですよね。コミュニティマネージャーとアナウンサーも、基本的には聞き役なので。

-コミュニティマネージャーもアナウンサーも聞き役?

わださや:わたしのなかではそうですね。「どうすればこの人とはやく打ち解けられるだろう」とか、「どうしたら本音で話してくれるかな」とか、考えてるんです。

アナウンサーとしてインタビューするときもそうだし、コミュニティマネージャーとして「co-ba」の入居者さんと接するときもそうで。専門的な言葉でいうと、「心理的安全性」をつくるために試行錯誤してるんだなぁって、最近は思ってます。

-心理的安全性?

わださや:自分の考えや気持ちを安心して発言できる状態のことで、心理的安全性が高いと、そのチームは生産性が高いといわれてるんです。わたし、そんな心理的安全性が高い状態をつくりたいっていう気持ちが強いんですよね。

-わださやさんにとって、心理的安全性が高い状態をつくるためにも「聞く」ことが大事なんですか。

わださや:とても大事ですね。とくに、起業したばかりの方々のなかには、すごく孤独感を抱えてる人も多いんです。

世の中で認められるべき人たちだし、これから応援してくれる人はたくさん見つかるはず。だけど、起業したばかりだと話を聞いてくれる人もあんまりいない。それで、自信がぐらぐらしてしまうときもあるんだと思います。

そんなとき、「この人になら本音を聞いてもらえて、後押ししてもらえる」っていう存在でありたいって。コミュニティマネージャーをやっていて、強く思うんです。

-「聞くこと」が、その人の人生を後押しすること。

わださや:はい。その人が生き生きと、自信を持って生きられるようにサポートできる存在でありたくて。そのために、「聞くこと」がすごく大事だなって思います。

-なるほど。「聞くこと」の力を感じた瞬間って、これまでにありましたか?

わださや:そうだなぁ…たとえば、起業家の方と仲良くなって、話を聞かせてもらうなかで、「なんで起業したのか」みたいな、根っこにある想いの部分に触れられることがあるんですよ。

そういう想いの話にじっくりと耳を傾けてると、「考えが整理されたから、ピッチ資料に想いを入れ込みたいと思いました!」って、スッキリした表情をしてもらえるときがあって。そういうときは、すごく嬉しいですね。

といっても、起業家さんってこれまでに何度も何度も自分の考えを掘り下げる作業をしてきていらっしゃるので、わたしが聞かなくても…という気持ちもあるんですけど。想いを聞くこと以外で、どんなふうに寄り添えるだろう、っていうことは、わたしの今後の課題ですね。

 

「ごんぎつね」の気持ちを伝えられた、という原体験

-わださやさんのこれまでの歩みについて聞いていきたいんですが、アナウンサーになりたいと思ったのはいつごろだったんですか?

わださや:小学校低学年のときです。わたし、もともと感受性がめちゃくちゃ強い子どもで。人の気持ちとか、相手が何を考えてるのかっていうのを、敏感に感じるほうだったんですね。

ある日国語の授業で、『ごんぎつね』っていう物語を朗読する時間があって。先生から「読んでみて」ってさされたんです。それでわたし、狐のごんは何を感じて、何を考えているかっていうことを感じながら読んだんです。そしたら先生が、「ごんの気持ちがすごく伝わった!」ってほめてくれて。すごく嬉しかったんですよ。

「誰かの気持ちを理解して、それを伝えることができるのって、めちゃくちゃ嬉しいことなんだな」って、そのとき気付いたんです。

-ある意味、ごんの気持ちに耳を傾けて、代弁していたと。それがしっかりと聞き手にも伝わっていたんですね。

わださや:はい。それが嬉しかったから、「そういうことができるお仕事がしたい」って先生に言ったら、「アナウンサーがいいんじゃないの?」って言ってくれて。その一言がきっかけで、アナウンサーを目指すようになりました。

-あぁ、じゃあもしその先生の一言がなかったら…

わださや:もしかしたらアナウンサーになってないかもしれないですね。あの一言は、わたしのなかですごく大きかったと思います。

「地元が好きじゃない」は、興味があることの裏返し

-その出来事があってから、ずっとアナウンサーを目指していたんですか。

わださや:はい。「アナウンサーになるぞ!」と思って、大学受験のときも「アナウンサー輩出大学ランキング」みたいなものを見て、受験する大学を決めました。上京して大学に入ってからも、アナウンサー志望者のためのスクールに通ってましたね。

それで、就活の時期になったんですけど、アナウンサーの募集ってそもそも少ないから、アナウンサー志望の人って全国各地の募集にエントリーする人が多いんですね。わたしも、いろんな局のエントリーシートを書いてみたんですけど、「どうしてこの地域を選んだんですか?」っていうような質問で、いつも書く手が止まってしまって。

-うまく書けなかったんですか。

わださや:そうなんです。「その地域で働く理由がないな」って思っちゃって。本音はそうでも、なにかしら理由をつけて書ける人もたくさんいると思うんですけど、わたしにはそれができなくて。「本音で書けないと、相手には伝わらないぞ」って思っちゃってたんですよ。

そうするうちに、「じゃあ、自分は本当はなにがしたいんだろう」って、けっこう悩むようになってしまったんです。それで、さんざん悩んだ結果、アナウンサーとしては高知の局だけ受けることにしました。

-それは、どういった理由で?

わださや:あるとき、「わたし、地元が好きじゃないな」って気づいたんです。地元の高知に対して、「田舎で、しがらみが強くて…」っていうイメージがあって。だから地元に戻るつもりなんてなかったんです。

-今ではわださやさんは地元への想いがつよいですよね。以前は地元が好きじゃなかったっていうのは意外です。

わださや:「好きじゃない」っていう気持ちは、すごく興味があることの裏返しなんだと思います。

当時も、「好きじゃない」っていいながら、テレビで高知のニュースが取り上げられてると見ちゃうし、他の人が高知についてツイートしてたりすると、なんか嫉妬心が湧くというか。「わたしの方が高知のこと知ってるし、課題感を感じてるのに!」って(笑)。

そういう自分を振り返ったときに、「ほんとうは、高知のことがすごく好きで、高知を元気にしたいんだ。その気持ちはきっとゆるがないものだ」って、確信が持てた瞬間があったんです。

-よく、自分の好きなことを深掘るとやりたいことが見えてくる、といいますけど、むしろ「好きじゃないこと」こそが、わださやさんにとって大切な価値観のありかを示していたんですね。

わださや:そうなんですよね、まさに。それで、4年生の夏に高知のアナウンサーの募集が出たのでエントリーして、その想いを伝えたら、幸い受かって。「高知さんさんテレビ」に入局できることになったんです。

 

「聞くこと」を通して、人生の転機に寄りそいたい

-小さい頃からの夢だったアナウンサーになることができたわけですが、転職したのはなぜだったんですか?

わださや:アナウンサーになってから、情報番組のMCや、報道番組、イベント司会などをやらせてもらって。たくさん食レポをしたりとか、ときにはディレクターや動画編集の作業をすることもあって、ほんとうに楽しい日々だったんです。

わたし、仕事の中でも結婚式の司会がすごく好きで。結婚式って、新郎新婦がどういう人生を歩んできたかを当日伝えるために、事前にヒアリングをするんですね。その過程で、その方にとって大事な想いが見えてくる瞬間があるんです。その方自身が、「この人と結婚した理由が、ストンと腑に落ちました」って気づくような瞬間だったり。それからは、目の色がガラッと変わるんですよ。

-誰かに話を聞いてもらうことで、自分自身でも気づいていなかった想いに気づけるんですね。

わださや:はい。そういう瞬間を何度も目の当たりするなかで、「その人の心の声を聞くことで、人生の転機に関わって、生き生きと生きていけるようにサポートできることがすごく嬉しいな」って、思うようになったんですよね。

-あぁ、「ごんぎつね」のエピソードともつながるような。

わださや:あ、たしかにそうですね!あのときも、ごんの心の声を聞いていたのかも。アナウンサーをしながら、そういう心の声を聞くような瞬間がたくさんあって、「もっと人生の転機に寄り添う仕事をしてみたいな」って思うようになったんです。

-それで、コミュニティマネージャーになろうと。

わださや:はい。コミュニティマネージャーって、まさに人生の転機に寄り添う仕事だと思います。とくに起業って、人生をかけた転機じゃないですか。だから、そういう転機に寄り添うために「co-ba」で働きたいと思ったんです。

 

地元の若者が、生き生きと生きられるように

-都内の企業でコミュニティマネージャーとして働くようになったわけですが、高知への想いは持ち続けているんですよね。

わださや:それは、持ち続けていますね。「高知を元気にする」ことは、わたしが人生かけて取り組むことだと思ってます。ツクルバに入った理由のひとつも、場づくりの方法や、地域の起業家や自治体の課題感を知ることができたら、いつか高知に帰って活かせるはずだと思ったことだったので。

-「人生をかけて」というくらい、強い気持ちなんですね。それはどうしてなんでしょう?

わださや:どうしてだろう…

きっと、かつての自分が、地元を好きになれないことでつらい思いをしていたから、なのかもしれないですね。

高知にいたときは、どこに行っても知り合いがいたり、東京で流行ってるものがなかったりすることが、いやでいやで仕方なくて。だから、中学とか高校時代は反抗期がすごくて、心が荒れてたんですよ。でも今振り返れば、地元のことを好きになれないことが、すごくつらかったんです。

-好きになれないこと自体が。

わださや:人でも場所でも、身近な存在を好きになれないのってつらいじゃないですか。後悔してるわけじゃないんですけど、もしあのとき、地元を好きだって思うことができていたり、その状況を楽しめていたら、どんな人生が待ってたんだろうって思うんです。ほんとうは地元を好きになりたかったんですよね。

自分自身が、地元を好きになれなくてすごくつらい想いをしていたから、今高知に住んでる若い人には地元を好きになってもらえたらいいなって。それがきっと、高知の人たちが生き生きと生きることにつながるって信じてるんです。

 

「やりたい」の想いがコップから溢れるのを待つ

-いつか高知で活動することを考えていると思うんですが、いつ、どんなことをするのかのイメージは湧いてますか?

わださや:それが、まだぜんぜん湧いてなくて。今は「やりたい」より「やらなきゃ」っていう使命感が強いから、まだ行動するのはやいかなって思うんです。

-使命感が強いと、まだはやい?

わださや:ずっと「高知を元気にしなきゃ」っていう気持ちを持ってたんですけど、焦るような気持ちもあったんですよ。それがしんどくて。焦る気持ちにしたがって動き出すこともできると思うんですけど、「やらなきゃ」で動き出すと、後でもっとしんどくなってしまうんだろうなと思うんです。

今わたしの周りにいる方って、「co-ba」で関わる人たちをはじめ、自分の「やりたい」っていう気持ちに素直に生きてる人たちが多いんです。そういう人達をみてると、すごく生き生きしていて。

きっと、「やらなきゃ」で生きる人生より、「やりたい」で生きる人生の方が、幸せに生きられるんだろうなって。わたしも、いずれ高知に対して「やらなきゃ」より、「やりたい」が上回るときがくると思う。それは確信してるんです。

-あぁ、コップから水が溢れるみたいに。

わださや:はい。いつか「やりたい」っていう気持ちがコップから溢れるときが来るのはわかっていて。そのときが来たら、「こういうことをしよう」って決めたいです。今はまだ、その時じゃないんだと思いますね。

-今は場づくりの仕事をしていますが、必ずしも場づくりをやるとも限らないと?

わださや:そうですね。もともと高知で場づくりがやりたくて、その経験を積むために転職したんですけど。東京に来て、いろんな世界を知って、場づくりじゃない可能性もたくさんあるなって気づいたんです。じゃあ、どういう方法で高知に関わりたいんだろうっていうことは、これからも広い世界をみるなかで見つけていきたいですね。子どもも生まれまれたし。

-子どもが生まれて、何か考え方に変化が?

わださや:子育てが始まると、どうしても時間が制約されるじゃないですか。愛する存在ができたときに、その存在に注ぐ以外の時間を使うのなら、その存在と同じかそれ以上に大切だと思えることじゃないとやれないと思うんです。

じゃあ、それはわたしにとってなんなんだろうって。まだ答えは出ていないけど、それを今まさに、考えているところです。

インタビューを終えて

アナウンサーでもコミュニティマネージャーでも、消防士でも農家でも。その肩書きはなんであれ、「聞くことができる人」がいます。その人にとって「聞くこと」は、呼吸をすることのように当たり前のことで、自分が「聞くことができる人」だとは気づいていないことも。だけど、その人の「聞くこと」によって、どれだけまわりの人が支えられていることか。

つよい主張や見栄えのいい言葉を扱える人が影響力を持つ世の中で、わださやさんのような「聞くことができる人」の存在の大切さを、僕らはもっと認識していいはず。そして、もしこの文章を読んでいるあなたが「聞くことができる人」であれば、その力が地域やコミュニティをきっと生きやすいものにしていくんだろうなと、取材を終えて感じています。

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